ももクロ&アイドル blog (by中西理)

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維新派「呼吸機械 <彼>と旅をする20世紀三部作 #2」

 滋賀県長浜市高橋町さいかち浜に作られたびわ湖水上舞台で維新派の新作「呼吸機械」を見た。維新派というと野外劇のイメージが強いがこのところ海外公演や関東での公演との関係もあって劇場での公演が続いていたから、大阪南港での「キートン」(2004年)以来なんと四年ぶり。本当にひさしぶりの野外劇である。
 びわ湖水上舞台ということで、湖畔にへばりつくように野外劇場が建てられている。入ってみると、通常の舞台で言う八百屋とは逆に、手前が高く、遠くなるに従い低くなり、ついには渚のように湖面に没している。その向こう側にまるで水平線のようにびわ湖が見える。いわばびわ湖を借景に使っている感覚なのだが、そこから見える劇場の外側はいつもの野外劇のようにビル群や山なみが見えるわけではない。その分、舞台は幾何学的に切り取られた空間のようにも見え、シンプルで美しい。
 だれもいなかったその空間に黒い衣装の旅芸人の一座が現れ、さらにそれを追いかけるように少年たちが登場して芝居ははじまった。前回は南米を舞台としたが、今回の舞台となったのは第二次大戦から共産体制へと二十世紀の歴史のなかで翻弄されたポーランドである。
 「三部作」ではメインモチーフとして「旧約聖書」が引用され、その作品世界に重要な意味合いを付与しているが、第一部では「創世記」から「ノアの方舟」のくだりが引用された。この「呼吸機械」で引用されたのは同じく「創世記」から「バベルの塔」の一節だった。さらに直接引用されることはないが、この物語の主人公となる少年たちにカイ、アベル、イサク、そして少女オルガと名前を付けることによって、戦災孤児となり戦乱を逃げまどう少年少女たちの運命に「カインとアベルの物語」など旧約聖書のほかのエピソード群への連想、イメージの重ね合わせが起こるような仕掛けも試みられた。
 全体的には旧約聖書における人々の争いと合わせ鏡のように戦乱と紛争の時代としての二十世紀が描かれていく。前半部分ではヂャンヂャン☆オペラによる二度にわたって地名が群唱される。地名の群唱はこれまでの維新派の作品にもちょうど歌枕における「地名ずくし」のような形でよく出てきたが、今回は少し様子が違う。「バベルの塔」の引用の後、「グルジアチェチェン……コソボ……」などと続く一連の知名は耳をすませてよく聞くと現代からはじまり過去にさかのぼっていく、世界各地で起こった紛争地の名前の連鎖である。もう一カ所の知名の連呼はアウシュヴィッツに代表されるナチスドイツの強制収容所の名前のようであった。
 ただ、物語(ナラティブ)ということに関していえば構造が演劇的で、人物造形も目鼻立ちがはっきりしていた「nostalgia」と比べるとあまりうまく機能していない気がした。物語のひとつの大きな流れがあるというよりは絵画的なシーンの連鎖によりイメージの連なりが世界を構築していくが、つながりが弱い。これではよほど描かれる対象となる世界(欧州の戦中、戦後の歴史の流れ)に対しての知識がないとそのつながりを再構成して、ひとつながりの物語と受け取るのは困難なのではないかと思わざるをえなかった。
 文章の最初の方で「舞台となったのはポーランド」と書いたが、これは「nostalgia」におけるサンパウロブエノスアイレスのようにはっきりと提示されたものというわけではなくて、先ほど挙げた知名づくしや後半に出てくる大人になった主人公によるテロ行為の場面がアンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」からの明瞭な引用である、という事実から間接的に想定させるだけで、はっきりとそうであることが示されるわけではない。むしろ、ギリシアを舞台とした「旅芸人の記録」からの引用場面やこちらは引用元がはっきりしないので言い切る自信はないのだがチェコのアニメ作家であるヤン・シュヴァンクマイエルを思わせる場面もあったりして、はっきりとポーランドを特定しているのか、中欧、東欧の全般をもう少し幅広くイメージしているのかがはっきりしないところもある。
 内橋和久作曲の変拍子の音楽に合わせて単語を羅列したような大阪弁ラップ調のセリフをパフォーマーたちが群唱するのが維新派のヂャンヂャン☆オペラである。しかし、ヂャンヂャン☆オペラはそれだけではない。新国立劇場で上演された「noctune」あたりから私は便宜上「動きのオペラ」と呼んでいるが、パフォーマーの動きだけでセリフがないダンス風のパフォーマンスがもうひとつの柱となってきた。「キートン」、「ナツノトビラ」(2005−2006)、前作の「nostalgia <彼>と旅をする20世紀三部作 #1 」(2007)と「動きのオペラ」への方向性はしだいに明確なものとなってきた。

 今回の作品は表題の「呼吸機械」を思わせるダンスシーンを作品の冒頭とラストのそれぞれ15−20分ほど、作品の中核に当たる部分に持ってきた。「それありき」で作品が組み立てられているところから、「動きのオペラ」のひとつの到達点を示した作品に仕上がったといえるかもしれない。

 特に前半部分の動きをほぼ映すような形で反復しながらも、それをびわ湖の湖面に向かって、少しずつ下がっている舞台空間、その上を流れていく水のなかに浸かりながら行う。パフォーマーの動きだけでなく、野外劇場だからこそ可能な水の中の演技で飛び散る水しぶきさえ、照明の光を乱反射して輝き、50人近い大人数による迫力溢れる群舞とともにほかに比較するものが簡単にはないほどに美しいソーンを展開した。維新派上演史に残る珠玉の10分間だったといってもよかった。