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演劇の身体表現とダンス

司会 今日は演劇特有の身体表現にこだわって、作品を作っている三人の演出家(上海太郎、宮城聰、安田雅弘)に集まってもらいました。

 上海さんは言葉なしでも身体表現だけで成立する演劇の確立を目指し、上海太郎舞踏公司を旗揚げしました。宮城さんの主宰するク・ナウカは身振りの俳優と語りの俳優を分離するという実験をしています。一方、安田さんの山の手事情社では、ダンスも含めた色々な身体表現が舞台上で共存するというような意欲的の取り組みに挑戦しています。

 いわばこの三人は現代日本演劇の身体というものを考えるうえで、最前線に立って創作をしているということが言えるのではと思っています。それでまず、皆さんに演劇における身体ということを話し合ってもらう前にそれぞれ、演劇とダンスの身体表現に違いがあるのかについて考えていることを述べてもらいたいのですが。
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 宮城 うちの場合、動きだけやる人と台詞だけやる人に分かれていますから、動きだけやる人はダンサーを呼んできてもできるようにぱっと見は見えます。でも演技のムーブメントとダンスは違う。ダンスというのは音楽と本質的には同じで、身体を開放していく。つまり、やればやるほど気持ちよくなるというおおもとの構造を持っているわけです。
 逆に言葉というようなものは言えば言うほど気持ちよくなるものではない。むしろ、その本質は我慢をすることで、我慢して、我慢してというのが演技の動きだと僕は考えているんです。我慢というと少し誤解を与えるかもしれないので、言い方を変えれば自分を開放してしまわないで抑制する。例えば一連の動きの流れからこう動きたいというのを動かないとか、そういうことなんですが、演技の場合は九割ぐらいは抑制だと思っている。能なんかも踊っているようだけどほとんど抑制ですね。ただ、能でいえば舞うというときがあって、そのときには足が地面から離れる。つまり、演技の中でもダンスになる部分はある。オペラにレチタティーボとアリアの二分法があるのだけれど、説明的な部分と感情の風呂敷を広げる部分があって、その感情の風呂敷を広げる部分というのは全体のなかでちっとなんだけど、その部分だけは快感原則に乗っ取ってもいい。
 でも、大半の部分では僕は役者に対しても、ここは踊ってはいけないという風に言っているんです。
 上海 役者は気持ちよくなるなということなんですか。
 宮城 そうですね、大体のところは。十のうち、一とかもっと少ないくらいは気持ちよくなってもいいんですが、基本的にはそうですね。
 上海 僕は少し違う。僕は自分を一応、役者として位置づけているんですが、台詞をしゃべりたくないなと思ったのは何故かというと、とちるのはいやだなとか、忘れたらいやだなというような、苦手意識のようなものがあって、舞台上で気持ちよくなれない。なんとか舞台で気持ちよくなれないと一生、役者をやっていくのもつまらないなと思った時にできるだけ自分を不愉快にさせるものを捨てようと思ったわけです。だから、今の宮城さんの話の全く逆なんだけど、自分が役者をやるからには気持ちよくなりたい。
 それでひょっとしたら、ダンサーは気持ちいいのかもしれないと、思ったわけです。動きでももちろん、いろいろなモチーフを身体の中に入れていったりとかそういう稽古の作業から実際に舞台にでても、段取りをとちるんじゃないかとか同じ様な危惧はあるんだけど自分はそのほうが楽だから。
 そういう意味では自分が舞台に立つのが楽しいから、その楽しさは観客と共有できるのじゃないかと思っているわけです。
 宮城 それは僕も最終的には気持ちよくなってほしいんです。ただ、十のうち九までは芝居というのは筋があるので、それは仮にマイムみたいな身体言語だとしても、人間関係のような部分で、例えばこの人とこの人が敵なんだけどその妹と恋に落ちたというような言語的な説明でしか説明できない部分があって、そのあげくになにか身体的な開放という言葉とは何の関係もない幸福な瞬間がある。滑走路がずっとあって最終的には離陸する瞬間を見せたいのだけど、九割までは滑走路というように考えているんです。ロックコンサートなんかだといきなり離陸して、後はその状態が延々と続くわけで、演劇はそうではないと思うわけです。
 上海 演劇とダンスの違いについて言えば芝居には時間の流れみたいなのがあって、つみ重ね法のようなものがある。例えば箱があって、それを一つ開けると中から別の箱がでてくる。こういう作業を延々と観客が続けていくと最後にこんな小さなものがでてきて、あ、これかという快感のようなものが、芝居のカタルシスになっていく。ダンスはそうじゃなくて、もっとポンと出てしまうもののような気がする。
 安田 今の二人の話を聞いて僕の考えに近いと思ったんですが、上海さんにお聞きしたいんですが、言葉をしゃべっていると快感から遠ざかるような気がして、言葉を捨てたとおっしゃっていたようなんですが。言葉は確かに不自由な部分をすごく持っていると思うんです。台詞をとちるという恐怖はたえずありますよね。毎日、同じことを言っていると、なおさらありますよね。ただ、動きの場合でもそうじゃないかと思うんですが。
 上海 それは個人的な得手不得手なのかもしれません。しゃべりが得意ならば、別の方向に行っていたかも。
 安田 ただ、道具として使う場合に、言葉というものより肉体の方がたぶん直感的に使えるんだと思うんです。つまり、間違いがより少なく使えると思うんです。疲れているとかいうことがなければ。
 上海 あと、間違いが分かりにくいというのはありますね。(笑い)
 宮城 それはそうだ。(笑い)
 安田 それだけ、言葉というのは脆弱な基盤のうえに成り立った技術なんだという気はするんです。人類史の中でも。そして、演劇
というのはそれを駆使してやっている。
 僕自身が今の宮城さんの話も上海さんの話も聞いて、目指しているものが近いなと思うのは、最終的に言葉にならないものにしか感動というのはないんだというのは当然のこととしてあるんですが、僕自身は演劇の肉体というのはどこまでも名付けられるものになっていく肉体だと思うわけです。それに対して踊りが目指すべき肉体は名付けられないものになっていく肉体だと思うわけです。演劇というのは絶対になにかの役になるんです。なんでもないものであったとしても、なんでもないものという役なんです。ただ、具体的になんでもないものになれるかというと、これはダンスの方がはるかになりやすい。
 例えば、怒りそのものというのになれてしまう。演劇で怒りという役があったとしてもこれは怒りくんになっちゃうわけね。(笑い)
 上海 怒りAとかね。(笑い)
 安田 でも、ダンスの場合には怒りそのものなんだなと感じさせるなにかになりやすい。言葉がない分だけ。だから僕はそれはもう逆手にとっているんです。演技というのは名づけられるなにかになるということ。ダンスをするということは名付けられないなにかになっていくということになる。
 うちの劇団で役者に月に何回か発表させるんですが、最初は人間の物まねをさせていくんです。ある時飽きてダンスもやろうぜといってダンスもさせ始めたんです。その時名付けられる肉体になるとダンスって見てて詰まらないなと思った。つまり、怒りちゃんになったらいけないんだなというのが分かったわけです。あるいは喜んだちゃんとか。そうではなくて喜びそのものにならないと見て全然感動的じゃない。
 ただ、僕自身も今の大半の演劇が伝えている内容に不満を持っている人間の一人ではあるわけです。これはたぶん宮城さんも上海さんもそうだと思うのだけど。つまり、演劇が本来伝えられることというのは絶対に戯曲化されないことだと思うわけです。
 今の社会が求めてるのは名付けられた人間がこまっしゃくれてあれこれやっていることではなくて、名付けられないものがどういうものなのかが、舞台表現に適したテーマだと思う。こうした時にいかに名付けられるものたちを寄り集めて、ひねくりまわして、名付けられない、ダンスに匹敵するような空間を築けるかというのが、演劇の課題なのであって、それを宮城さんは言葉と身振りを分けることで実現しようとし、上海さんは演劇人でありながら、言葉を捨てることで実現しようとし、僕は僕でごちゃごちゃやってる。こんな感じじゃないかと話を聞いてて考えたわけです。