ももクロ&アイドル blog

ももいろクローバーZとアイドルについてのブログ

桃唄309「おやすみ、おじさん3 - 草の子、見えずの雪ふる」

桃唄309「おやすみ、おじさん3 - 草の子、見えずの雪ふる」

吉原清司 森宮なつめ バビィ 吉田晩秋 山口柚香 佐藤達 國津篤志 あらきひとみ 畑雅之 (jorro) 別府明華 立花あかね (ラ カンパニー アン)
成本千枝 (ラ カンパニー アン) 高木充子 (ラ カンパニー アン) 菅原直樹 浦壁詔一 中嶌聡 (クレイジーパワーロマンチスト)


◎長谷基弘の「メタ関係性の演劇」
 中西理(演劇・舞踊批評)
群像会話劇の形でその背後に隠れた人間関係や構造を提示する「関係性の演劇」は1990年代以降の日本現代演劇で大きな流れを形成してきた。桃唄309の長谷基弘もその一翼を担う重要な劇作家だが、長谷には平田オリザ岩松了松田正隆長谷川孝治らと比較したときにスタイルに大きな違いがある。
 これらの「関係性の演劇」の多くが一場劇ないしそれに近いスタイルだったのに対して、長谷が同じく群像会話劇でありながら、短い場面を暗転なしに無造作につなぎ、次々と場面転換をするという独自のスタイルを開拓したことにある。時空を自由に往来する劇構造は従来、映画が得意とし演劇は苦手としてきた。それは映画にはあるカット割りが、演劇にはないからだ。ところが、短い場面を暗転なしに無造作につなぎ、次々と場面転換をするという独特の作劇・演出の手法は映画でいうところのカットに準ずるような構造を演劇に持ち込むことを可能にした。
 演劇で場面転換する際には従来は暗転という手法が使われたが、これを多用すると暗転により、それぞれの場面が分断され、カットやコラージュ、ディソルブといった映画特有の編集手法による場面のつなぎのようなスピード感リズム感は舞台から失われてしまう。これが通常劇作家があまりに頻繁な場面転換をやらない理由なのだが、これに似た効果を演劇的な処理を組み合わせることで、可能にしたのが長谷(および桃唄309)の創意なのだ。
 長谷の代表作には戦争に政治的に巻き込まれていく若い芸術家たちの話「私のエンジン」(1992年)、飛行機からスカイダイビングをしながら2組のチームが争う(架空の)スポーツ、ダイビングサンダーとそれに取り組む実業団チームの群像劇「ダイビングサンダー」(2002年)、作家の心象風景を90以上の場面を切り替えつつ描いた「よく言えば嘘ツキ」(1999年)、ブラジャーが開発されそれが一般の人にも普及していく100年の歴史を描き出した「ブラジャー」(2005年)などがある。いずれも共同体の全体像や非常に長い歴史など既存のスタイルの演劇がとらえるのが難しい対象をこの方法で描いている
長谷作品でも関係性の演劇のほかの作家同様に会話を通じて、最初は伏せられていた人物間相互の関係や共同体と個人の関係が明らかになっていく。ところが長谷の場合には明らかになっていくのは人物間の関係にとどまらない。場面と場面の相互関係もそれがどのような関係にあるのか(ある場面とある場面は時間軸が異なる同じ世界の出来事なのか、それともどちらかがどちらかの世界の劇中小説のような入れ子の構造になっているのか)などのメタレベルの関係も同時に提示され次第に明らかになってくる。そして、観客は舞台を見ていくうちにそうした関係を含めた世界を自ら再構築するような作業が要求される。
 こうした作品の構造はこの「おやすみおじさん3」にも当てはまる。ただ、ほかの作品と異なるのは僕、母、おじさん、黒いコートの男とシリーズキャラが多く登場し人物間の関係はシリーズを見続けてきた人間にとってはそれほど難解ということはないということだ。だが、それぞれの場面の関係ということに関してはこの作品はがどういうかなり複雑で、場面は単純に時空を次々と移動していくというだけでなく、記憶の座である森のなかの書庫(図書館)を介して、過去のある時点の選択により分岐した複数の世界が同時に存在しているパラレルワールド的な世界を縦(時間軸)、横(違う世界の間)を次々と移動して事物が描写されていく。そのため、現在においてなにが実際にあった事象で、どれがいわばありえた(けれども実際には起こらなかった)事象なのか、ということはかならずしも明示されるということはない。それは一連のシークエンスとして提示されていくなかで観客の解釈によってはじめて認識される、という構造になっている。
 実は私としてはある場面に登場する人物同士の関係を提示する関係性の演劇に対し、これはそれぞれの場面同士のメタレベルの関係性を提示していることから、これも含めて「関係性の演劇」と呼んでいるのだが、あえて分けるとすればこちらは「メタ関係性の演劇」などと呼びなおした方がよりその実態を反映したものとなるのかもしれない。
 「おやすみ、おじさん3」は長谷が10数年前より書きためていた、中学生の「僕」とまじない師の「おじさん」と妖怪に関するストーリー集を素材としたもので「おやすみ、おじさん」(2003年)、「おやすみ、おじさん2 - 影食いと影吐き」(2004年)に続き本作が3作目である。
このシリーズは最初の2作品では東京の郊外あたりのどこかの街を舞台に展開した。これまでは時空の移動はあっても、そのころ一方こちらではこんなことがという調子のリアルタイムに近い事象で語られてきたし、これまでの2作品では物語に違いはあってもいずれも不動産業とタイアップして街を再開発しようと暗躍する黒いコートの男と、その活動によって昔からのコミュニティーが破壊させることで行き場を失う妖怪たちと彼らを守ろうと不動産屋らと闘うおじさんたちという構図が基本にあった。
 ところが今回の作品は舞台が一転してJR東日本磐越東線の「神俣駅」から深く分け入った場所にある「五島旅館」とその周辺にある深い森になっている。温泉旅館での出来事を中心にその旅館の近くにある森で起こった怪異とそれにまつわる出来事が複雑なプロットで過去、未来を行きつ戻りつしながら語られていく。
 「草」と呼ばれる忍者の末裔と思われるような存在とそれを式神のように使役し使いこなす女将、おじさんが連れてきてしまう雨女という不思議な存在、おじさんのライバル(敵役)である黒いコートを着た男と多彩なキャラクターが入り乱れての活劇調の展開で、通常公演が大人向けの映画やドラマのような世界であるとすると、この「おやすみ、おじさん」シリーズは言って見れば少年ドラマシリーズのようなところがあるかもしれない。もう少し複雑な人物と社会の関係性を精密に描きこんだ他の作品と比べると深みには欠けるところがある部分があるのは否めないが、その分単純なエンタメ性は優る。
 このシリーズのもうひとつの特徴は彼らがISIS(自立不能舞台装置システム)と命名している「俳優が支えていないと倒れてしまう(その間俳優は丸見え)」という舞台装置である。大層な名前がついているが要するに俳優が段ボールやベニヤ板で作られた書割の舞台装置をその手で持って支えている、というものなのだが、思わず笑ってしまうようなそのしょぼさ、チープさ加減に騙されてはいけない。この装置は人間が持ったまま自由に動かせるから、場面の中で居場所を自在に変えることができ、これと役者の演技を組み合わせることで、街の中を歩きまわる登場人物をカメラが追尾する映画の移動撮影のような効果やそれが倒れて見えなくなることによる一瞬での場面転換(カットアウト)など通常は演劇では実現が難しい、いろんな種類の特殊効果がこの方法論により可能になるのである。セリフ回し自体は会話劇系の演技に近いという違いはあるけれど、少なくともこのおじさんシリーズでの桃唄のスタイルはパワーマイム(集団によるマイム演技)、カメラワークといった空間造形のやり方に似たところがあり、勧善懲悪的な分かりやすい物語と合わせ、惑星ピスタチオを彷彿とさせるところもある。その意味でもよりシリアスかつリアルなタッチを重視している通常の長谷作品の印象とは大きな違いがある。もっとも、ISISを含め、このような演出法は登場人物もデフォルメされているうえ、妖怪など人間以外のキャラも頻繁に登場し、全体として「漫画」のようなイメージが強い「おじさん」シリーズだからこそ成り立つものだといえるかもしれない。
(演劇舞踊評論 中西理)