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「猫ニャーの笑いについて 〜ブルースカイ論試論〜」(中西理)

 「この21世紀の始まりとともに、私共猫ニャーは「劇団」であることを辞め、「劇弁(演劇弁当)」というものに変化しました。劇弁というのは一言で言って、『演劇飛弁当を作る集団』であると、僕らの場合は解釈してますが皆さんはどうでしょうか。まあ、今のところウチには金がないのですぐにお弁当屋を開店するわけにはいきませんが(5年後に開店できたら大成功と言っていいでしょう)、弁当屋開店を目指してその資金を集める集団をも「劇弁」と呼んで支障はないだろうと思い、今年から猫ニャーは「演劇弁当猫ニャー」と名のります。今の段階ではやや唐突な印象をもつ「劇弁」というスタイルですが、今後どんどんこの劇弁というものが増えていけば、馬鹿らしくてとてもいいと思います。ひょっとしたら100年後には劇団も弁当屋も世の中からすっかり消えて、すでに当たり前になった劇弁だけが残り、あるとき誰かが疑問に思うのです。『あれ、考えてみたら演劇と弁当屋って……何で一緒にやる必要があるんだ?』『何言ってんのよ。演劇とお弁当はセットじゃない』『そうかな…だってさ』『…あれ…ほんとだ…意味ないかもしれない』『くそ、やられたな……』
22世紀のどこかの誰かに、やられたなと一言言わせるためににも、猫ニャー一同何かとがんばっていくだろうと思いますので、どうぞこれからもよろしくお願いします。
それに明けましておめでとうございます  ブルースカイ」
 2001年の元旦、次のような年賀状がダイレクトメールとして観客のもとに郵送された。その前の年の11月に猫ニャー最終公演と題して行った公演「将来への不安Z—2000/ファーブル・ミニ」のチラシで猫ニャーは劇団からの離別宣言をした。そのことへの解答がこの「劇弁」始動宣言なのであった。
 演劇がひとつの制度であるとすればそれは自明とされ意識にはのぼらない様々な約束事に拘束されて成立している。演劇ジャンルのなかに不条理劇、ないしナンセンス演劇の系譜がある。それは常識として定着し、だれも疑問を抱いていなかった制度性の根源に問いかけ揺さぶりをかける。そのなかで「笑い」が方法論としてある種の有効性を持ちうるのは西洋における不条理劇、イヨネスコやベケットの例を考えても明らかであろう。
 日本の現代演劇史においてそうしたナンセンス手法は駆使したのまず60年代後半に劇作を開始した別役実であった。そして別役実を正統に受け継いだナンセンスコメディによって「演劇の制度性の解体」を大衆化し、80年代から90年代にかけてさまざまな実験を行ったのが「劇団健康」(のちにナイロン100℃)のケラ(KERA)だったということができると思う。
 猫ニャーのブルースカイは九〇年代半ばにケラのナンセンスコメディの後継者として登場した。ケラの影響下に出発していることはその集団につけられた「猫ニャー」という思わず脱力してしまうような名前、自らの「ブルースカイ」という人を喰ったようなペンネームからも窺い知ることができる。だが、そこには「笑い」においても、「演劇の解体」においても単なるケラの模倣に留まらない独自性がある。それが九〇年代日本現代演劇において猫ニャー=ブルースカイの存在をきわめてユニークなものにしている。
 それではその独自性とはどんなものなのだろう。これから猫ニャーの舞台を個別に取り上げそれを明らかにしていきたい。
 まず最初に猫ニャーがケラの率いるナイロン100℃との合同公演「猫100℃ー(ねこひゃくどしぃぃぃー)」で上演した「山脈」(九八年五月)を取りあげてみよう。
 ブルースカイ作演出によるこの芝居にはまず山で遭難した3人の女性(ヒトミ、マキ、チサト)が登場する。「山脈」という題名から考えると、彼女らを救済する山岳救助隊の物語として展開していくことを予想させるのだが、最初の予想は以後、次々と裏切られていく。
 地元のオイスター山岳救助隊は訓練しているだけで危険がともなうとの理由で実際の山岳救助はしたことがない。今回も行動をすることなく、救助を断念。しかもそれを後悔したことをテーマにした本まで出版する始末である。その情けない山岳救助隊にアメリカ帰りの新入団者が現れる。登場の仕方もなかなかカッコ良く、今度は物語は彼女を中心に展開するかと思わせるが、それも簡単に裏切られ、しばらくすると彼女も単なるその他大勢のわき役になり下がってしまう。
 そして、真打ちとして登場するのが、手塚治虫の「ブラックジャック」のように莫大な金額を取って、遭難者を救助する男、レスキューガイとピノコみたいなその助手マリリンのコンビである。しかし、山で遭難した三人の友人とはぐれ、ただ一人だけ助かった女、ユミの必死の懇願にもかかわらず、ガイも遭難者を助けようとはしない。そうこうするうちにユミはガイの恐ろしい秘密を知ってしまう。ガイは人間を食べないと長く生きられない人食い人種体質になっていたのだ。
 一方、遭難した三人は喧嘩をはじめて、一人が離反する。しかし、実はこれは人食いの山婆から仲間を守るための悲しい嘘だった。一度は見捨てた二人だったが、気を取り直して、救助に向かう。ここで、物語は感動的な友情の話になると一瞬思わせる。が二人は簡単に山婆に捕まってしまう。
 恐ろしい秘密を持つレスキューガイだが、そのことは無視してストーリーは進んでいく。すき間の開いたトイレが苦手なためアメリカが鬼門であったガイだが、遭難していない人からの救援依頼という難問にあえて挑戦するためアメリカに行く。いつのまにかガイといい仲になっていたユミはアメリカについた途端に高慢な女に変身し、ガイは彼女にトイレに閉じ込められ半狂乱になる。そこに助手マリリンが現れ、救助され、やっとのことでガイは帰国する。
 ところで、山婆に捕まった三人は勇気を出して山婆と対決するが、そこで、強い山婆と戦うよりも、山婆を味方につけて救助隊と戦う方が得策であるとの考えが浮かぶ。救助隊と遭難者はついに宿命の対決の時を迎える。そこに救助隊を助けにレスキューガイが現れ、驚愕の真実が明らかにある。
 「今明らかになる真実! レスキューガイと山姥は実は双子の姉弟だった」と垂れ幕が降りてくる。床に敷かれたリノリウムをめくるとそこにも同じ言葉が。そして、役者が全員そろって「本日はどうもありがとうございました。レスキューガイと山姥は実は兄弟でした」とのあいさつでそれまでの物語の流れとは無関係に舞台は唐突に終わってしまう。観客はなにが起こったか分からぬままにぼう然と客席に取り残されてしまうのだ。
 この芝居は中野ザ・ポケットという小劇場スペースで上演されたのだが、芝居が終わって帰る途中の劇場から中野駅までの順路にもいつのまにかいたるところに「レスキューガイと山婆は実は姉妹だった」と書かれた張り紙が張られている。
 あらすじを記しながらこれほどむなしくなることもない。それほど、ブルースカイ=猫ニャーの芝居において筋書きは無意味である。
 しかも、そのアイデアはいままで、述べたようなストーリー展開上のナンセンスを超えて、メタ演劇的な方向へと進む。この「山脈」でも駅までの道筋に張られた張り紙以外にも、客をいじらない客いじりとか、意味もなく芝居中に突然、挿入されるドミノ倒しの準備なども盛り込まれている。これは芝居が上演されている最中に時間をかけて大勢で芝居が行なわれる横にドミノが並べられるというもので、その間、舞台はドミノが並んでない舞台の上手半分だけを使って窮屈そうに行なわれる。これほどの準備に時間をかけているのだからどんな凄いドミノ倒しを見せてくれるのだろうと期待していると、見事にそれを裏切り、掃除の人がやってきて箒のようなもので一瞬のうちに並べられたドミノを掃き出してしまうのだ。
 ここではブルースカイは芝居と関係のないナンセンスなことを突然行うというある種のナンセンス芝居の文脈をさらにずらし解体して見せているのだ。こうしたところが猫ニャーがもっともラジカルな笑いを体現しているといわれるゆえんである。
 猫ニャーが注目を集めるきっかけとなった「鳥の大きさ」(九七年)はそれに輪を掛けてアバンギャルドな公演であった。舞台にはそれだけで全体を占めてしまうほど大きな鳥が置かれている。その上で展開されるシチュエーションコメディという触れ込みで芝居はスタートする。夫婦ものとその娘、元生物学の教授、脱獄囚、OL、顔中包帯まきの謎の女とその彼氏らしい男。彼ら八人はなぜか気が付くと太平洋上を飛んでいるらしい大きな鳥の上に集められている。
 舞台の進行に伴いそれぞれの人物はみな謎めいたところを持っていることが分かってくる。どうも娘を持つ夫婦ものは妻の方が三年前に娘の担任教師を殺してしまっているらしい。囚人、神田は自分の妹を含めて十人を殺した罪で服役しているらしい。他にも包帯ぐるぐる巻きの女はなぜそんな風になってしまったのか。そして、教授が変身していく野生人「スティーブ・リーバーマン」とは。大きな鳥の存在といいちょっとおかしなところはあるものの、芝居の前半は謎が解かれそうな様々な伏線が散りばめられている。それぞれの人物の人間模様も徐々に明らかになっていき、いよいよクライマックスと思われるところで芝居は一度休憩に入る。
 その休憩中に記念コインだと称して500円玉が観客全員に配られる。それはなんと本当の五百円なのである。入場料1700円の芝居で500円が還ってくる。果たしてそれで公演は成り立つのだろうか。絶対に赤字に決まっている。こうした疑問を無視するように舞台の後半がはじまる。
 後半ではそれまで提示された数々の謎が解き明かされていくのだろうと思っていると、今度は先ほどまでの山ほどの前振りをまったく無視して、突然脈絡のないストーリーがはじまってしまう。贋金作り、演劇部、刑務所を主題にしたコントである。
 このあたりはまだ登場人物が前半と重複しているので、なにか手掛かりになるのだろうと思い注目していると、舞台上ではいつのまにかナレーションだけでほとんど役者が演技らしい演技をしない「桃太郎」の芝居がはじまっている。しかもこのころには前半に出演していた役者たちは徐々に入れ替わり、「鳥の大きさ」の八人は舞台からひとりもいなくなってしまう。そして舞台上に「桃太郎」を演じるキャスト表にも名前のないこれまでの猫ニャーの公演でも見たことがない俳優だけが残るとブルースカイが登場して、カーテンコールのあいさつをはじめ、「おじいさんとおばあさんを演じました、伊集院ミツル」などとそこにいる役者を次々と紹介する。「鳥の上でのシチュエーションコメディはどうなってしまったんだ」と戸惑っているうちに舞台は終わってしまいここでも後には狐につままれたような状態の観客だけが取り残される。最初の方で登場していた主要な役者たちは舞台から全く消えてしまって二度と姿を現さないのだ。
 さらにもう一例を挙げよう。96年に上演された「ファーブル〜南フランスが生んだこの地味な偉人の全てを誰が知りたい?〜」。これは手元に資料がないので若干の変更はあるとは思われるが猫ニャー最終公演と銘打たれて2000年に短縮版で再演された「ファーブル・ミニ」を元に冒頭部分を再現してみる。
 『進化論で有名なあのダーウィンから、「類いまれな観察者」と非常に高い評価を受けたファーブルは、今から177年前の1823年、フランス南部のサン・レオンという小さな村で生まれた。そしてその時から九一年にもおよぶ彼の「地味な偉人」としての、あまりにもパッとしない生涯がはじまる……。この芝居はこんな風な映像でスクロールしていくタイトルロールとともに昆虫学者アンリ・ファーブルの評伝劇のスタイルを装いながら始まる。
 しかしファーブルの伝記はなげやりに少しだけ関係するエピソードが時折、挿入されはするもののすぐに本筋からそれていく。「偉人のなかでファーブルほどその生涯を知りたいと思わぬ人はいないだろう」との前提をもとに、自分の意思とは関係なく増減するおじいさん(6人制おじいさん)の話や舞台上でドライヤームースを使い髪を逆立てて変身したファーブルともう1人の人物による壮絶なバトルなど、史実などまったく無視したコント風の場面が上演時間3時間を超える間、延々と無駄に演じられるのである。
 さらに念のいったことに途中一度だけ入る休憩時間に観客にはファーブルの伝記的プロフィールがまとめられた紙が配られ、「どうしてもファーブルについて知りたい人はこれを読んでください」との説明だけがされるのである。
 最後に紹介するのは拙者ムニエル猫のホテルとの合同企画「猫演劇フェスティバル」(2000年2月、三鷹市芸術文化センター)で上演された作品である。このフェスでは「桃太郎」を主題にした3本の芝居がそれぞれの劇団の手で連続上演され、猫ニャーはその最後の1本を受け持った。
 ここに登場する桃太郎の一行はなぜか背中に核燃料を背負っている。鬼に捕らえられていた奴隷たちは最初は解放者としての桃太郎一行を歓迎するが、核燃料から放射能が洩れはじめ、奴隷たちは鬼退治をあきらめ桃太郎たちを追いだそうとする。そうした中でついキジが核爆弾を完成してしまい、桃太郎も核実験がしたくてたまらなくなる。しかし、ここで踏みとどまって核兵器削減に踏みだす桃太郎。ここでは物語は形式的には寓話的反核劇の筋立てをなぞるのだが、最後に全員でシュプレヒコールするスローガンというのがバカバカしいことに「核兵器を2%削減しよう」なのである。そのメッセージが最後には他の劇団の俳優まで動員しての大群衆によって連呼されるうちに芝居は終わっていく。ブルースカイはこの芝居のなかでなにも説明しないため、初めて猫ニャーを見た観客の中にはこの芝居を社会派メッセージ劇だと取り違えた人もいたらしいが、そのメッセージの内容からしてこれがそんなものではないことは明らかであろう。
 以上の芝居はそれぞれ冒険活劇、シチュエーションコメディ、評伝劇、社会派テーマ劇のスタイルを借りているが、そうした種類の芝居が持っている基本的なパターンを次々と解体しずらして、ジャンルの枠組みを無意味化していくことで成立している。それだけであるのならばナンセンス味は濃厚だとはいえ、一種のパロディと受け取ることも可能である。だが、通常のパロディの場合、下敷きとなる元ネタが明示されて、芝居は元ネタについてのパロディであるということが明らかにされるのに対して、猫ニャーの場合には枠組み自体を解体していくために「批評的に解体されるもの/解体して表現されるもの」の区別が自明ではない。ここに猫ニャーの特徴がある。
 

 さらに猫ニャー=ブルースカイの場合そうした演劇の枠組みの解体が複数の階層で行なわれるが特徴である。まず最初は会話やテキスト、筋立てのレベルでの解体である。これは「山脈」の筋立てで取り上げたように設定から想定される筋立てをずらしていって、無意味なものにしていくというもので、通常のナンセンス演劇の方法論である。別役実やケラをはじめ通常ナンセンスあるいは不条理系といわれる芝居の「演劇の解体」は多くの場合このレベルで行なわれる。
 ところがこれだけでなく、より論理階梯の高いレベルでも「演劇の解体」が行なわれるのが猫ニャーの独自性である。
 二番目はある種の既存の演劇スタイルへのメタレベルでの批評ないし揶揄である。「鳥の大きさ」でのシチュエーションコメディの枠組みの解体や「山脈」でのドミノ崩しやのくだりなどがこれにあたる。猫ニャーの芝居ではミュージカルのようなシーンや夢の遊民社、第三舞台風の演技スタイルなどが突然挿入されたり、やはり八〇年代演劇によく見られた逆光の照明に照らされたなかでのドラマティックなテキストの群唱などが挿入される。これは既存の演劇の持つスタイルの自由な引用なのだが、多くの場合引用されるのは様式のみでこれが様式に対し無関係な文脈に意識的に置かれることで、そうした既存のスタイルへの揶揄として作用する。
 だがこの集団の本当の特色は「鳥の大きさ」での入場料を取って上演を行うという興行の概念を否定する五百円玉の返還や「山脈」での帰り道に張ってある「レスキューガイと山姥は実は双子の姉弟だった」の張り紙など演劇上演の枠組み自体に対する問いかけを笑いへと転化していく趣向にあるといえるだろう。
 こうした問いかけはこれまでもアルトーベケット、そして日本では市外劇などを標榜した寺山修司ら実験演劇の巨匠たちの手によって問われてきた。しかし、最近の寺山脚本の上演を見てもそうした行為はすでに「演劇の制度」の中に取り込まれ当初の衝撃を失い形骸化されたものになりさがってしまっている。そのような現状を思えばそうした「演劇の解体」を笑いに転化して軽やかになぞってみせるブルースカイの手法はいまもっとも刺激的な実験だといってもいい。
  
 
 ここまで書けば冒頭に挙げた「演劇弁当猫ニャー」の宣言がいかにも猫ニャーならではの「メタ演劇的批評行為」であるということが分かっていただけるであろう。あえて、「演劇弁当」なるものを宣言することでブルースカイが問いかけているのは演劇界において自明とされてきた「劇団」というシステムへの懐疑なのである。「演劇弁当」というのは劇団では食べていけないから新たな組織に改編すると言っておきながら、弁当屋を開店するためには資金がないのでそれを稼ぐために演劇活動を続けるというのだから、その存在自体が矛盾している。ナンセンスそのものである。さらに念の入ったことに演劇弁当猫ニャーの旗揚げ公演「猫型物語〜Beef,Onion and Cats〜」のチラシでは猫ニャー所属の女優である池谷のぶえ天王洲アイルスフィアメックスで実際に弁当屋をやってベンチャー企業として成功をおさめているグローバルサンドカンパニー社長の菅原律氏との真面目な「弁当屋対談」まで掲載している。ここでもどこまでが冗談(パロディ)でどこまでが本気かのメタメッセージがないところが猫ニャーの面目躍如といったところなのである。
 もっともこうした猫ニャーの活動のコンセプトは危険でアクロバティックな綱渡りともいえる。なぜなら、既存の演劇的文脈に対して過激な解体へと向かう猫ニャーの方向性は「演劇弁当」に代表されるようにどこまでも、突き進むと自らのよって立つ方法論までを射程に捉えざるをえない。必然的に自己表現の解体まで、向かわざるえない必然性を持っていると思われるからだ。
 ここで私はどうしても自らのしっぽを食べているうちに消滅してしまったというトカゲの物語を思い浮べてしまう。通常の表現者がラジカルにスタートしながら、どこかでその歩みを止めて自己の作風の保持に努めざるを得ないのはその可能性の前に思わずしり込みして解体から脱構築へとその方向性を転換するからかもしれない。
 宮沢章夫、ケラ、松尾スズキ後藤ひろひとら笑いの旗手といわれる劇作家たちが、純粋にラジカルな笑いから転向せざるを得なかったのにはいろんな理由が考えられるだろうが、このことも大きな理由のひとつであるという気がしてならない。
 この危険な波乗りをブルースカイはいつまで続けることが出来るのだろうか。彼は確かに才能のある作家であることは間違いないが、今後どこに着地点を求めるにせよ、今のような綱渡りを続けられるのはそんなに長い間とも思えない。それゆえ、逆説的に言えば今しか見ることが出来ないという意味でも猫ニャーこそ旬の劇団といえる。次の公演ではイカルスのように墜落する可能性を常に孕んでいるのだから。劇団とは書いたが、すでに猫ニャーは「劇弁」であり、劇団でさえなくなってしまった。自らの消滅に向かって突き進むブルースカイの冒険に今、付きあえるということは21世紀の日本を生きている演劇観客の特権といえるかもしれない。