ももクロ&アイドル blog (by中西理)

ももいろクローバーZとアイドルを考えるブログ

「現代日本演劇・ダンスの系譜vol.9 演劇編・ポツドール」セミネールin東心斎橋     

VOL.9[三浦大輔と欲望の演劇]Web講義録

 東心斎橋のBAR&ギャラリーを会場に作品・作家への独断も交えたレクチャー(解説)とミニシアター級の大画面のDVD映像で演劇とダンスを楽しんでもらおうというセミネール「現代日本演劇・ダンスの系譜」の第9回目を始めます。今回取り上げるのは三浦大輔(=ポツドール)です。
 ポツドールは好んで性風俗の世界(AV撮影、ラブホテル、キャバクラ、乱交パーティー)を題材として取り上げたり、その作品に性行為そのものを想起させるような場面や暴力シーンを挿入するなど一緒のスキャンダリズムによりサブカル的な話題を集めてきました。しかし、そのスタイルは平田オリザら前世代の関係性の演劇*1の作家の方法論を基礎にそこにドキュメンタリズム的な手法を導入し、よりハイパーリアルな舞台空間を構築していくというもので、その意味では若い世代の作家のなかではもっとも正統的な平田オリザらによる「関係性の演劇」の継承者ということが言えるかもしれません。
 ポツドール三浦大輔は舞台の登場人物による会話を覗き見させるような形でいまそこにあるそこはかとない雰囲気を追体験されていくような「リアル」志向の舞台を構築していきます。「覗き見させるような」と書きましたが、これは平田が90年代に登場した時によく冠せられていた言葉でもあります。ポツドールの場合はその覗き見する場所を風俗のような悪場所に設定することで一層、「覗き見」の快楽をピュアに追求しようという確固たる意思が感じられます。
 今回は関西ではまだあまり知られていないポツドールの全貌に迫っていきたいと思います。
【日時】2009年5月22日(金)p.m.7:30〜 
【場所】〔FINNEGANS WAKE〕1+1 にて
 ポツドール早稲田大学の演劇サークル、 早稲田大学演劇倶楽部の出身です。早稲田大学では第三舞台山の手事情社双数姉妹、東京オレンジなどの人気劇団を生み出した早稲田大学演劇研究会(劇研)が名門ですが、最近は演劇倶楽部(演くら)も知名度が高く、こちらは先輩に八嶋智人が所属していることでも知られるカムカムミニキーナなどがあります。96年の旗揚げですから設立後13年目になります。

 まず、ウィキペディアと劇団公式サイトからポツドールのプロフィールを簡単に紹介すると以下のようなものとなります。


ポツドールとは

1996年12月、早稲田大学演劇倶楽部10期生の三浦大輔を中心に結成された演劇ユニット。 第1回公演から第4回公演まではいわゆる演劇的な過剰なドラマを得意とし、多くの観客から支持を得る。が、2000年7月、第5回公演『騎士(ないと)クラブ』で、それまでの作風を一変させ、演劇的なものを最大限に排除したドキュメンタリータッチの作品に挑む。 「リアル」を徹底的に追求したこの作品は「セミドキュメント」と称され、これを機会にメディアに大きく取り上げられるようになる。そして、第6回公演『身体検査』では舞台上の完全ドキュメントを実行。役者が一切、演技をせず、プライベートを背負ったまま舞台に上がるという表現手段は、 多くの賞賛と批判を同時に受け、小劇場界に衝撃を与えることになる。その後も「リアル」にこだわった作品づくりに努め、 公演の度にセンセーショナルな話題を巻き起こした。
 しかし、第10回公演『男の夢』からは、その「セミドキュメント」で得たものを「ドラマ」に注入することで、様々なアプローチから「リアリティのある虚構」を描くようになり、田舎に住む若者達の愛憎を描いた第11回公演『激情』が、2004年度『日本インターネット演劇大賞最優秀演劇公演賞』を受賞し、またフジテレビ系列『劇団演技者。』でテレビドラマ化されるなど、大きな反響を呼んだ。同年、東京のみならず関西初進出も兼ねた第12回公演『ANIMAL』では、「台詞」を一切排除し「状態」「風景」だけでエンタテインメントとして成立させることに成功し、05年4月、初の新宿シアタートップス進出を遂げた第13回公演『愛の渦』では、「裏風俗」を舞台に、人間の性欲というものに真っ向から向かい合い、 話題を再喚起した。そして、この作品で第50回岸田國士戯曲賞を受賞する。また、初めての映像作品『はつこい』が第25回ぴあフィルムフェスティバルで審査員特別賞を受賞。「演劇」のみならず「映像」での活動も期待されている。
第1回公演 『ブサイク〜劣等感を抱きしめて!〜』1996年12月14日〜15日、早稲田銅鑼魔館
第2回公演 『ウラミマス〜アナタは動物〜』1997年6月6日〜6月9日、早稲田銅鑼魔館
第3回公演 『しあわせ花〜不幸なアナタへ〜』1998年2月13日〜16日、高円寺明石スタジオ
第4回公演 『妻ぜめ〜welcome to the[dokata]world〜』1999年10月1日〜4日、早稲田どらま館
第5回公演 『騎士クラブ〜涙のピンク映画撮影会〜』2000年7月14日〜17日、大塚ジェルスホール
第6回公演 『身体検査〜恥ずかしいけど、知ってほしい〜』2001年2月16日〜2月21日、王子小劇場
第7回公演 『メイク・ラブ〜ラブホテル完全生中継!〜』2001年7月18日〜7月22日、王子小劇場
第8回公演 『騎士クラブ〜夢ならこのままさめないで〜』(再演)2002年2月8日〜2月17日、王子小劇場
第9回公演 『熱帯ビデオ〜燃えてメイキング!!〜』2002年5月22日〜5月27日、下北沢駅前劇場
第10回公演 『男の夢』2002年11月13日〜11月18日、下北沢駅前劇場
第11回公演 『激情』2004年6月23日〜6月29日、下北沢駅前劇場
第12回公演 『ANIMAL』
2004年10月8日〜11日、三鷹市芸術文化センター星のホール
2004年10月15日〜17日、in→dependent theatre 2nd ○
第13回公演 『愛の渦』2005年4月20日〜27日、新宿THEATER/TOPS
第14回公演 『夢の城』2006年3月2日〜12日、新宿THEATER/TOPS
女シリーズvol.1(第14.5回公演) 『女のみち』2006年7月5日〜10日、新宿THEATER/TOPS
第15回公演 『恋の渦』2006年11月29日〜12月10日、新宿THEATER/TOPS
第16回公演 『激情』(再演)2007年3月4日〜11日、本多劇場
ポツドール三鷹市芸術文化センタープレゼンツ〜太宰治作品をモチーフにした演劇第4回〜『人間♥失格』2007年7月6日〜16日、三鷹市芸術文化センター星のホール
女シリーズvol.2 『女の果て』2007年12月5日〜9日、赤坂RED THEATER
第17回公演 『顔よ』2008年4月4日〜13日、本多劇場
第18回公演予定 『愛の渦』(再演)2009年2月19日〜3月15日、新宿THEATER/TOPS

 以下の斜体の部分は前回のセミネールで取り上げた五反田団のレビューですが、ポツドールにもかかわることが述べられていますので、ここに再録します。
 平田オリザ岩松了松田正隆らが90年代半ばから開始した一群の群像会話劇のスタイルを呼ぶのに人口に膾炙した「静かな演劇」ではなく、「関係性の演劇」の呼称を使用したのはそれらの舞台の多くが複数の登場人物の会話のなかから、人物間の背後に隠された隠れた関係性のようなものを浮かび上がらせるという共通の特徴を持っていたからであった。ところが、一見それに似た会話劇のスタイルを継承するかに見えた若手の劇作家のなかで実は似て非なる方向性、アプローチで作品に取り組む作家が増え出したということに気がついたのは2000年前後のことであった。彼らの特徴はまず彼らの描き出す作品の登場人物には平田オリザらが好んで書き込んだような「社会的な関係性のなかで存在している人間」という視点が希薄だということであった。

 そうした性向を持つ若手劇団、劇作家として当時出会ったのが初期のKAKUTA、ポかリン記憶舎(=明神慈)、ポツドール(=三浦大輔)といったところだが、なかでも目立った存在として当時この目に映ったのが五反田団の前田司郎であった。

 もっとも私が最初に出会った当時の前田の作品(「動物大集会」「家が遠い」「ながく吐息」)では自分の方法論が関係性の演劇とは明確に違うということに対してそれほど自覚的ではなかったと思われる。見る側としても同様であったため、「動物大集合」では学生時代からの友達だった女の子たち、「家が遠い」「ながく吐息」では中学生が主人公、と社会的な関係性のしがらみにそれほど縛られていない世代の人物を取り上げたがゆえの違いであろうと解釈し、より広い事象に向かって作品によって描かれていくなかで「関係性の演劇」へと解消していく過渡期のものと解釈していた。

 しかし、それは前田がその後、発表した作品や彼が書く小説などを読んでいくにつれて次第にこれが決して過渡期のものではなく、確信があっての方向性だということが分かってきた。

 さらに興味深いのは彼の世代と相前後して活動を活発化した一群の劇作家たちが皆それぞれ作品の方向性は違っても、同種の傾向を持っているということに気がついたことで、それは演劇の手法としては「舞台上に起きている状況が引き起こすそこはかとない空気のようなものを観客と共有する」ので「存在の演劇」と名づけた。「存在の演劇」は実は太田省吾が自らの沈黙劇に対して名づけた名称なのだが、太田省吾の演劇こそ「空気を共有する」という特徴に合致したもので、この特徴をもうひとりの劇作家、遊園地再生事業団宮沢章夫も共有していて、宮沢の具象から太田の抽象へ矢印を延ばしたこの線上に当時登場してきた若手作家らを置くことができるのではないかと考え、これをひとくくりのものと考えたのである。
 この中にも書かれているようにポツドールも「ポスト関係性の演劇」として登場した「存在の演劇」を代表する劇団のひとつと考えることができます。その特徴は上に書かれているように「舞台上に起きている状況が引き起こすそこはかとない空気のようなものを観客と共有する」ということですが、同時に「関係性の演劇」と並び、青年団平田オリザのもうひとつの特徴である「現代口語演劇」という点では平田の捉えなかったような現代の若者特有の地口、スラングのようなハイパーリアルな会話を映す新たな演劇を創造したという点ではチェルフィッチュ岡田利規と並ぶ存在であるということも指摘できるかもしれません。
 ではさっそく実際のポツドールの舞台を映像で見てもらいましょう。最初に見ていただくのは「騎士クラブ」の映像です。
第8回公演 『騎士クラブ〜夢ならこのままさめないで〜』(再演)2002年2月8日〜2月17日、王子小劇場

『騎士クラブ〜夢ならこのままさめないで〜』
作・演出:三浦大輔 照明:九頭竜ちあき 音響:内山一貴 舞台美術:田中敏
 演出助手:安藤玉恵 映像:上田啓嗣 映像幕:海老原聡 小道具:溝口美帆ほか、
 宣伝美術:三浦大輔 舞台監督:松嵜耕治 制作:萩野智子ほか 

 出演:カタカナは映画中役名
 角清人  :ノムラ(工員、クラブ提唱者、盗撮相手に入れ込み退職)/ピンク映画監督
 小林康浩 :ビトウ(工員、いつも裸の人、先輩格) /売れっ子AV男優
 糸田淳一 :カネコ(工員、無精ひげの人) /一応映画俳優
 野平久志 :トガシ(工員、無口、ユキコを暴行し連れ込む) /脚本家
 西園泰博 :トマツ(工員、短気のヤンキー実は純情派) /ドサ回り役者
 岡雄一郎 :アズマ(工員、パーマの人、新人) /学生エキストラ
 米村亮太郎 :タケウチ(工員、インテリ入ってる新人) /学生エキストラ
 高多康一郎[RONNIE ROCKET] :シバ(工員、やることやる人) /プロデューサー
 齋藤舞[INSTANT wife] :ユキコ(盗撮相手、自称モデル)/新人女優

 旗揚げ後しばらくは大人計画のフォロワーを思わせるような芝居をしていたようですが、この時期については実際に目にしているわけではないので、ここでは詳細には触れません。転機となったのは第5回公演の2002年の「騎士クラブ〜涙のピンク映画撮影会〜」でこの作品ではAV撮影現場を取り上げ、暴力が振るわれるような撮影現場をハイパーリアルな舞台装置、演技で再現しました。映像は2002年2月王子小劇場での再演のものですが、彼らはこれをセミドキュメントと呼び、この後しばらく、シチュエーションを設定したうえで、脚本なしのすべてアドリブという「ドキュメント」として「身体検査〜恥ずかしいけど、知ってほしい〜」「メイク・ラブ〜ラブホテル完全生中継!〜」「熱帯ビデオ〜燃えてメイキング!!〜」と公演ごとに実験を繰り返すとともに、男優が全裸になるなどの一種のスキャンダリズムによって知名度を高めていきます。
 「騎士クラブ」は第一部と第二部に分かれていて、第一部では「騎士クラブ」と自称して隣家の女性の部屋を盗撮する工場労働者たちの生態が描かれます。盗撮は続くにしたがってそれがしだいにエスカレートしていくさまが描かれていきます。ところが第二部が始まると雰囲気は一変します。第一部で描かれていた話は実はAVの中での展開されている物語で、第二部ではそこがAVの撮影現場であることが明かされ、今度はそこでの「女優」と撮影スタッフのもめごとが描かれていくことになります。ここで取り入れられたのが彼らがセミドキュメントと呼んだ手法で、設定だけが決められているものの脚本はいっさいなく、例えばこの「騎士クラブ」では脱ぎたくないという女優をなんとか脱がせようという周囲のスタッフというシチュエーションだけが設定され、その場で場合によっては実際に痛みを伴った暴力的な行為を含め、単なる予定調和な演技ではない行為が実演されます。
 「騎士クラブ」という作品が興味深かったのは単なる入れ子型のメタシアター的な趣向にとどまらないことです。最後近くの場面はその女優が自殺したのではないかと連想させるようなショッキングなシーンで終わるのだが、最後の最後にはそれがまた反転して一種の虚構の枠に入り、結局なにが現実でなにが虚構かが宙づりにされて終わるという作品でした。これは女優を演じた齋藤舞の身体を張った熱演もあり、ポツドールの初期の代表作となりました。

ポツドール「メイク♡ラブ」映像

 「騎士クラブ」に続くのが「身体検査」「メイク♡ラブ」で特に「メイク♡ラブ」ではラブホテルが舞台という設定で、実際のカップルやこれからカップルになりそうな役者に出演してもらってそこに入ってから、行為にいたるまでの実演を自分たちの通りの感情で演じてもらうということをやりました。これもまったく脚本なしに演じてもらうということをやっています。
 以下の文章は当時ホームページに書いたポツドール「身体検査 〜恥ずかしいけど知ってほしい〜」についての感想です。

 ポツドール「身体検査 〜恥ずかしいけど知ってほしい〜」について感想を書く。演劇のおけるリアルとはなにかについて、見ていていろんなことを考えさせられる舞台であった。最初にまず幕が閉じられたままビデオ映像のように会場の左右に据え付けられたテレビ画面にキャバクラの面接風景が写しだされる。その後、幕が開くとそこはかなりリアルに作られた場末じみたキャバクラの一室で、ビデオ映像のように見えていたのは舞台をそのままリアルタイムで撮っていたのが分かる仕掛けである。この後舞台はあたかものぞき穴かなにかから覗いてみるようにかなりリアルな感じで、キャバクラの店のサービスの実態が再現される。私はこの種の店の実態にはうとい方なのでこれがどこまで実際のこの種の性風俗を再現したものかは不明だが(笑い)、少なくとも群像会話劇の形で展開されるこのシーンは芝居としては「本当らしさ」を感じさせるもので、見逃した前作「騎士クラブ」がやはり群像会話劇のスタイルでアダルトビデオの撮影現場を描いたものだったということを聞いているから、この劇団のひとつのスタイルが岩松了平田オリザらがスタイルとして確立したリアルな群像劇の形式を借りて、そうした手法で性風俗などの現場を描くことにあることを伺わせる。群像劇のスタイルというのは描くべき対象とは関りなく、観客に対してある種のリアル感を与えるための仕掛けであるから、そういうところからこういうことを表現する集団も現れるというのは必然といえないこともない。

 ただ、今回の舞台には別の狙いがあって、このキャバクラのシーンがしばらく続いた後、第2部というのが始って、ここではそれまで、第1部では完全に決められた台本があるわけではないのだが、それぞれ舞台上のキャバクラに登場して、客とキャバクラ嬢、店員を役柄として演じていた俳優たちが今度は素のまま登場して、「恥ずかしい本当の自分」を観客の前に晒して見せようということになる。


 ただ、この方法論もその後の「熱帯ビデオ」で限界を感じたのか、ここで再び方向転換します。そこで上演されたのが「男の夢」です。これが現在に続く、その後のポツドールのスタイルのひな形になります。今度は「男の夢」の映像を見てください。

 「男の夢」は地方都市のカラオケボックスを舞台に工場労働者ら若者たちの閉塞した苛立ちを描いた作品で、それまでのポツドールのように暴力的な場面や性的描写はほとんどありません。そのスタイルは平田オリザによる現代口語演劇を一層推し進めているもので、平田らがはじめた同時多発の会話というのをより極端な形で推し進めています。この舞台の上演時には下北沢駅前劇場という小さな空間での上演であったのにもかかわらず、「セリフが聞こえない」という非難の声がインターネット上の感想などで相次ぎました。これはまず第一に、かなりの会話がかぶってしまって、完全には聞きとれないようになっていること。もう、ひとつはカラオケボックスという設定から、会話の途中でカラオケの歌がかかってしまうとそれでも会話の内容はほとんど聞こえなくなってしまう。この2つの理由によります。
 ただ、これは技術的欠陥ではなく通常の会話劇に対しての異議申し立てとして、あくまで確信犯として挑発的に行っているもので、これはその後のポツドールのひとつのスタイルとして定着していきます。関西でも上演された「ANIMAL」では全編ヒップホップの大音声の音楽が流れ続けていて、セリフはそれにかき消されていっさい聞こえない中で群像劇が進行していきます。岸田戯曲賞の受賞後第一作となった「夢の城」では受賞後第一作であったのにもかかわらずあえてセリフのまったくない無言劇を上演するなど、いわゆる前衛・実験演劇とはまったく異なるスタイルではありながら、既存の演劇のスタイルに対する挑発的な姿勢はポツドールならではのものだと考えます。
 平田オリザの後継者とは書きましたが、平田がその劇世界から周到に排除した2つの要素に三浦はこだわり続けています。それは「性」と「暴力」で、そうした要素を色濃く取り込んだのが「激情」で、これはその後、テレビの「演技者。」でもドラマ化されるなど、三浦の代表作のひとつとなりました。そして、登場したのが「愛の渦」でこれで三浦は岸田戯曲賞を受賞します。
(「激情」の映像を一部見せる)

「愛の渦」初演
脚本・演出:三浦大輔
 照明:伊藤孝[ART CORE design] 音響:中村嘉宏[atSound] 舞台監督:矢島健
 舞台美術:田中敏恵 映像・宣伝美術:冨田中理[Selfimage Produkts]
 小道具:大橋路代 衣装:金子千尋 衣装:金子千春
 演出助手:富田恭史  写真撮影:曳野若菜 ビデオ撮影:溝口真希子
 制作:木下京子 広報:石井裕太 企画・製作 ポツドール
 出演:
 米村亮太朗 :男1
 富田恭史[iorro]:男2
 仁志園泰博 :男3
 古澤裕介[ゴキブリコンビナート]:男4
 小林康浩 :男5
 
 安藤玉恵 :女1
 岩本えり :女2
 小倉ちひろ:女3
 遠藤留奈 :女4
 佐山和泉[東京デスロック] :女5

 青木宏幸 :店員1
 鷲尾英彰 :店員2

「愛の渦」の劇評

 今もっとも刺激的な演劇を見せてくれるのはチェルフィッチュポツドール、と昨年から飽きるほどいろんなところで言ってきているのだが、今回のポツドールの新作「愛の渦」もそうした期待にたがわぬ舞台であった。この2劇団に共通するのは方法論的な実験性が高く、しかもそれを確信犯として追求していることだが、もちろん、それぞれの方向性はまったく異なる。チェルフィッチュについては以前少しまとめて書いたのでそちら*2を参照して、もらいたいのだが、大雑把に両者の違いに言及するとすればチェルフィッチュ平田オリザの関係性の演劇を批判的な形で継承しているのに対して、ポツドールは平田が以前に行った実験を方法論的にいえばある意味、正統的に継承しながら、平田ら過去の作家たちが取り上げなかった対象をあえて取り上げることで、その方法論において尽くされていなかった可能性を追求しようと試みていることにポツドールの演劇としての面白さがある。
 三浦大輔は舞台の登場人物による会話を覗き見させるような形でいまそこにあるそこはかとない雰囲気を追体験されていくような「リアル」志向の舞台を構築していく。今「覗き見させるような」と書いたが、これは平田が90年代に登場していた時によくこのように称せられていた言葉で、ポツドールの場合はその覗き見する場所を風俗のような悪場所に設定することで一層、「覗き見」の快楽をピュアに追求しようという確固たる意思が感じられる。
 この「愛の渦」で取り上げられたのは見知らぬ男女がそこに集まってきて、乱交パーティーをする場所を会員制のクラブをして提供しようという風俗店の一夜の出来事だ。
 舞台がはじまるとそこはフロアに低い机とゆったり座れるソファが上手に置かれていて舞台下手にはどこかの部屋に通じていると思われるドアと2階に通じる階段。舞台の奥にはカウンター席、上手寄りに狭い通路があり、その先に店の入り口が見える。セットは相当に緻密に作られたリアルなもので、一見ラウンジにも見えるこの空間が乱交パーティーを目的とした風俗店であることがしばらくすると分かってくる。店内には大音響でBGMが流れていて(今回はダンスミュージック)、上手側には4人の女性、下手側には4人の男性が座っているのだが、音楽のためにそれぞれの会話はあまり聞き取れない。
 このいろんなものに邪魔されて聞き取れない、あるいは聞き取りにくい会話というのが最近の三浦演出のひとつの特徴で、それが極限的に展開されたのが、大音響のヒップホップ音楽のために劇中の会話が一切聞き取れなかった「ANIMAL」だが、これは当然ながら役者の技術の問題でもなんでもなく、確信犯であることは説明するまでもない*3
 観客の舞台への構え方をお茶の間でテレビ番組を見ているような受動性からある種の能動性に変えようという狙いがあるわけだが、その意味では平田オリザがはじめて最近は別にそれほど珍しい演出でもなくなっている「同時多発の会話」と似たような狙いがあるわけだ。
平田は同時多発の会話によって、同時には聞き取れない会話のうちのどちらかを観客が主体的に選択させることにより、舞台に対する受動的な構えを突き崩し、それぞれの場面で観客が注意深く、その会話を聞き取ることによって、発話で直接的に提示される内容だけではない発話の構造が提示する登場人物相互の関係性に観客の目が無意識に向くようになる仕掛けを同時多発会話でつくった。三浦の場合は意図的に会話を聞き取れなくし、会話以外の仕草や役者の視線や表情のようなビジュアル情報を総合することで、その場面で展開されていることを観客が解釈や想像力がおぎなうことを強いる狙いがあるわけだ。
 このように書くと一見、観客に無理難題をしいているように感じる人もいるかもしれないが、それはこれまでの演劇が制度的に行ってきたことに縛れているわけで、こういうことは日常生活では普通の人は特別なことではなく経験していることなのである。
 会話の全体が聞こえないとしても、そこで直面すている状況に合わせて聞こえた部分の断片をつなぎあわせて解釈することで、例えばクラブや昔でいえばディスコのような喧騒空間のなかでも仲間内のコミュニケーションはある程度成立するわけだ。
 この芝居にはもうひとつ仕掛けがある。それは舞台がリアルタイムに進行していく中で何度か暗転が挿入され、その時に舞台前面のスクリーンに時間の経過が提示されることだ。これはもちろん、一晩の出来事を完全にリアルタイムで舞台上でフォローするのが無理だという物理的な事情もあるが、この描かれなかった時間の間にこの場所で起こったことを暗転前後の登場人物の関係性の変化(会話がぎごちなかったのが、うちとけた様子になっているなど)から想像させる狙いがある。
 「激情」「ANIMAL」など直近の作品ではしばらく遠ざかっていたが、これまでのいくつかの作品で三浦は「身体検査」(抜きキャバ)、「騎士倶楽部」*4(AVの撮影現場)、「メイク・ラブ」*5(ラブホテル)と性風俗の世界を好んで取り上げてきた。もちろん、そこにはある種のスキャンダリズムのような側面があって、そういう特異性がこの劇団の知名度をサブカル的に高めてきたということはある。だが、それはそれだけではない。
 この「愛の渦」では風俗店を舞台にすることで、セックスを前提とした場に集まる人間を描くことで、三浦が好んで描きつづけた性の欲望に支配された性的動物としての人間を赤裸々に描きうる場を選択するとともにそれ以外のそれぞれの背景を意図的に捨象することで
性という主題に特化した人間の姿を描き出す目的があったと思われる。
 これは実は本来は複雑な関係性をフラットなものに還元していくという意味で安易とも見えかねない危険性も含んでいるのだが、三浦が巧妙なのはこういう設定においても人というものが優れて関係的な生き物で性欲だけで生きているわけではないということをきわめて冷徹な筆致で提示していくところ。平田の演劇について以前、「あたかも動物を観察するかのようにある空間で登場人物に起こる出来事を観察させるような演劇」と書いたことが、あったが三浦のこの芝居にも作演出の三浦と舞台の間の俯瞰的な距離感に同じような印象を感じさせられた。
 それが一番よく現れたのは途中で会話が途切れてきまずい雰囲気が漂いだした時にここでするのは明らかに変な会話なのに登場人物がそれぞれの職業とか出身地を聞き始める場面。
芝居としてはこの部分は笑えるところとして機能している。
 ここで思い出したのは青年団の「冒険王」という芝居の一場面だ。それは日本を捨てた放浪者的旅行者が集まる安宿に自分の夫を探しに日本から主婦が訪れるところで、ここでこの女性だけが会う人、会う人に「なにをなさっている人ですか」のような職業や出身などを聞くので、その場の雰囲気がしだいに悪くなっていく。ここで平田は日本人の他者との関係のとり方を描写したわけだが、三浦のこの場面も日本人の会話によくある状況を観察眼鋭く取り入れた会話の切り口に感心させられた。
 もうひとつは後半の登場人物それぞれの本音が爆発して、一触即発になりそうなところで、これはこういうフラットな関係の場面にも当然、登場人物にはそれぞれの思惑があって、この場がけっして、性のユートピアのようなところではありえないということが、明らかにされる。
 こういう直視がはばかれるような人間性の嫌な部分をかなりの部分、舞台上で提示してしまうのが、三浦のもうひとつの持ち味で、これまでの舞台では舞台上で実際に男性が女性に暴力をふるうようなところもかなりリアルな演出でやってしまうところにある種の珍しさはあった。ただ、この「愛の渦」という舞台ではむしろそういうところは想像にまかせて、避けるような手法もとられていて、これは今回の舞台がいままでとはちょっと違うところを感じさせる部分でもあった。
 もちろん、暴力シーンはまだしも、いくら性を主題にしていても舞台上で実際のセックスを見せるわけにはいかないわけで、この舞台では階段の上の部屋が実際に事を行う部屋として設定されていて、そこからはかなりリアルなあえぎ声とかが聞こえてきたりするのだが、
観客のだれひとりとして、そこで実際に事が行われていると考える人はないだろうし、リアル追求といってもそれは演劇である限りは嘘がいかにリアルに見えるのかが問題なのは言うまでもない。それを考えるとこの変化はこれまでの舞台を通じてさまざまなリアルのあり方を追求してきた三浦にとっては当然に帰結なのだろうと思う。
 90年代に登場して三浦と同様に性的欲望を自らの主題としてきた劇作家に大人計画松尾スズキがいる。哲学者ニーチェの語彙を引用して、アポロン的側面の強い関係性の演劇*6に対し、松尾の劇世界はディオニッソス的と表現したことが以前にあった。松尾はこの人間の欲望により支配された世界をある種の神話的な世界を構築することで描き出した。
 これまで便宜上、三浦を平田の後継者として描写してきたが、そういう見地からすれば三浦には松尾の後継者的部分もある。実は「激情」という舞台を見たときには、その舞台の設定や世界観から松尾スズキの「マシーン日記」などを彷彿とさせるところがある舞台だとも思った。
 今回の「愛の渦」はそういう意味からすれば描かれている世界や描き出す手法は違うのだが、誤解をおそれずに言えば、ポツドール三浦大輔はディオニッソス(=松尾スズキ)的な主題(モチーフ)をアポロン(=平田オリザ)的な方法論で構築していく、という言い方もできるかもしれない。
 松尾スズキ平田オリザも演劇において刺激的な実験を行ってきたという意味では好きな作家ではあるのだが、最近の作品には舞台自体のクオリティーという意味ではなく、方法論的実験性という意味では物足りない思いがある。だからこそ、松尾や平田が90年代に行ってきた実験を踏まえて、三浦がある意味そうした前提を出発点として、今後どのような演劇的地平を開いていくのか。そこに今後も注目していきたいのだ。

 本当はこの「愛の渦」の映像を見せられるとよかったのですが、今回は「渦」シリーズの第2弾としてその後、上演された「恋の渦」を上映いたします。

 第15回公演 『恋の渦』2006年11月29日〜12月10日、新宿THEATER/TOPS 脚本・演出:三浦大輔
 照明:伊藤孝[ART CORE design] 音響:中村嘉宏[atSound]
 舞台監督:清沢伸也、村岡晋 舞台美術:田中敏恵
 映像・宣伝美術:冨田中理[selfimage produkts] 演出助手:富田恭史[jorro]
 アドバイザー:安藤玉恵 小道具:大橋路代[パワープラトン]
 衣装:金子千尋 写真撮影:曳野若菜 制作:木下京子 企画・制作:ポツドール
 出演:
 米村亮太朗:コウジ
 鷲尾英彰 :ユウタ(コウジの遊び仲間)
 美館智範 :タカシ(ユウタの同居人)
 古澤裕介 :オサム(コウジの遊び仲間)
 河西裕介 :ナオキ(コウジの弟)
 
 遠藤留奈 :トモコ(コウジと同棲中)
 内田慈  :カオリ(トモコの会社同僚)
 白神美央 :ユウコ(トモコの会社同僚)
 小島彩乃 :サトミ

 小林康浩 :男 

 
 「恋の渦」で開発された別々の複数の部屋で様々な出来事が同時進行するという群像劇の手法は「顔よ」でより精緻に展開されていく、人間の心に潜む様々な欲望や本音を赤裸々に暴き立てていくようになります。また、「顔よ」「人間♥失格」では現実の描写と主人公の心の中で妄想されることが虚実ない交ぜに入り混じるような構成ともなっており、スタイルは異なりますが、五反田団の前田司郎の一群の「妄想劇」との近親性も感じさせる部分が三浦の作品には見られます。
 これまでとは若干順序が逆になりましたが、最後に演劇以外の映画の世界でも三浦の才能は注目されています。三浦は溝口真希子との共同監督により撮影された初めての映画作品「はつこい」2003年でぴあフィルムフェスティバル審査員特別賞を受賞。2007年にOV映像の「ソウルトレイン」を撮影。今年はいよいよビッグコミックスピリッツで連載されていた「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の映画化*7を監督。こちらも妄想ばっかりのモテないサラリーマンに訪れた恋の行方が描かれるということで、内容は「ソウルトレイン」と同工異曲ともいえそうだが、その主人公を、銀杏BOYZ峯田和伸が演じる。来春公開ということで一気にその知名度を上げることになるきっかけとなるかもしれない。

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ポツドール公演レビュー


ポツドール「顔よ」

http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20080406

ポツドール「夢の城」

http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060305

ポツドール「愛の渦」

http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050424

インターネット演劇大賞

http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20041230