ももクロ&アイドル blog (by中西理)

ももいろクローバーZとアイドルを考えるブログ

木ノ下歌舞伎*1「テラコヤ」@atelier GEKKEN

木ノ下歌舞伎 「テラコヤ」(atelier GEKKEN)を観劇。

源蔵「梅はとび桜は枯るゝ世の中に。」
松王丸「何とて松はつれなかるらん。女房悦べ、倅はお役に立つたはやい」
―『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」より―

[補綴・原案] 木ノ下裕一
[演出] 杉原邦生
出演 谷本健人 小田部みなみ 諸江翔大朗 山村麻由美 池戸宣人 京極朋彦 濱崎彰人 鈴木健太郎 豊山佳美 舟木理恵 芦谷康介 殿井歩
照明 宇野恵理子
音響 荒木優光
衣裳 村田佳奈
小道具 穐月萌
美術製作 濱地真実
音響助手 北島由委
演出助手 和田ながら
舞台監督 米谷有理子
舞台監督助手 金濱歩美
制作 木村悠介 林里恵


主催 木ノ下歌舞伎
協力 アトリエ劇研

―『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」あらすじ―
 菅丞相(史実=菅原道真)は藤原時平の陰謀により失脚させられた。その一人息子・秀才をかくまいながら、武部源蔵は寺子屋(私塾)を営んでいる。
 秀才の行方を捜索していた時平の使者が、その首を取りに源蔵のもとへ向かっている。源蔵は寺子の中から身替わりの首を差し出すことを考えるが、秀才の顔を知る松王丸がその首を確かめることになっていた。源蔵は決死の覚悟で、偶然にもその日に寺入りした、秀才と同じ年頃の男の子の首を打つ。しかし、この男の子は秀才の身替わりにするために源蔵のもとへやられた、松王丸の実の息子であった……。

 木ノ下裕一、杉原邦生を中心に京都造形芸術大学の卒業生、在学生らによる上演。昨年春の旗揚げ公演「yotsuya-kaidan」*1(杉原邦生演出)は見たのだけれど、体調を崩して木ノ下が同じ戯曲を演出した第2回公演「四・谷・怪・談」は見逃したのでこれが約1年ぶりの観劇となった。実は前回の旗揚げ公演で「今回のように大学生か、卒業してすぐというようなキャリアの浅い俳優だけでそれを成立させるのは難しいと思われた。そのため、やはり全体としては完成度という面ではまだまだ荒削りで『学生演劇としてはまあまあのできばえ』というレベルでしかない」とかなり厳しい意見を書いたのだが、若さとは恐ろしいもので今回の公演では役者たちの演技に格段の進歩を感じた。
 そのため、「yotsuya-kandan」では舞台後ろに張られた幕をくぐるようにして舞台上に登場する役の俳優が出てきて、台のようなところに座り正面の客席の方を向いて台詞を言うという杉原の特異な演出スタイルが目立ってしまった感があったが、基本的な上演スタイルは変化はないが、今回は俳優らの演技力が向上したためか、演出のプランよりも台詞回しなどのより細かいところに力を注ぎ込む余裕が感じられ、舞台はよりシンプルでありながら力強いものに仕上がった。
 その意味ではなかなか見所のある舞台となった。特に武部源蔵(諸江翔大朗)、その妻戸波(山村麻由美)、松王丸、その妻(手元に資料なく役者名が不明)の4人は熱の入った演技で好演といっていいかもしれない『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」といえば歌舞伎の演目としては前回上演された「四谷怪談」以上に知名度も上演頻度も高い演目でそのせいで私のような門外漢でも何度もその舞台を実際に見たことがあるほどである。そうした親しみやすさがあるせいか、現代演劇の上演でありながら客席にはすすり泣きの声も各所から聞こえてきたような気がした。
 つまり、ここでは忠義と愛情の板ばさみになって忠義をとることで自分の子供が殺されたしまうという松王丸の悲劇が語られるわけだが、その悲劇の形式というのはいってみれば古典的ともいえるものでそれゆえ普遍性が高いともいえるからだ。実は杉原の演出はここの勘所での部分の俳優の演技について自然な感情の発露のようなものをやりすぎることなくうまく引き出していた。そこに演出家としてのセンスのよさを感じた。
 もっとも、古典劇としての戯曲を現代的に解釈しようとの意欲もこの上演からは感じたがそこのところはやや勇み足の部分もあったかもしれない。古典戯曲の場合そのまま素直に上演すればいいものをことさらにそれに現代的な解釈を加えてしまうというのはどうやら劇作家ではない演出家の性のようで、鈴木忠志蜷川幸雄のような超ベテランになってもこの悪癖は直らないみたいだし、演出センスという意味では全幅の信頼を置いている宮城聰でさえこうした勇み足からは逃れられないところがある。それゆえ、まだ若い杉原や木ノ下をそれで批判するのもどうかとも思うが、管秀才を演じた俳優が最後の最後でゆがんだ悪の表情を作る演出はおそらくただのお涙頂戴じゃないぞという意思表示のつもりかもしれないが、全体の流れのなかでは違和感が残った。
 関西では優れた劇作家は挙げるにいとまがないほどだが、東京と比べて物足りなく思うのは演出家を中心とした集団が少ないことだ。そういうなかで木ノ下歌舞伎をはじめKUNIOなどいくつかのプロデュースユニットで活動を開始している杉原邦生の才気溢れる存在感は若さゆえまだ荒削りの面があるのは否めないが今後ともに注目すべきであろう。ただ、まだ試行錯誤の時期と考えるにしても現在の活動形態には若干の疑念がないでもない。
 というのは今回進歩を感じたと書いた木ノ下歌舞伎にしても以前に書いたように歌舞伎のような古典テキストを現代演劇として上演するためにはなんらかの形での様式化、抽象化が必要なのであるが、そのためにはここから先に進むためにはどうしても自分たちだけのオリジナルな身体性、台詞回しを追求するための集団の存在が不可欠になってくると思われるからだ。そして、これはそれぞれ方法論は違っていてもこれは例えばク・ナウカの宮城聰が、山の手事情社の安田雅弘が、花組芝居加納幸和が通ってきた道であり、現在の京都を例にとれば地点の三浦基が歩みだした道でもある。杉原にとっては現在は今後の自らの方向性を決めるための試行錯誤の時期なのかもしれないが……。
 昨年上演された「yotsuya-kandan」は今年の夏にはこまばアゴラ劇場の夏のサミットに参加のため練り直して再演される(初の東京公演)ようだが、あの時と比べると俳優の成長も著しいこともあり、どんなものが上演されることになるか楽しみである。
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