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舞台「幕が上がる」2回目@ZEPPブルーシアター六本木

2015年5月1日 (金) 〜2015年5月24日 (日)
原作・脚本平田オリザ
演出 本広克行
出演 百田夏菜子 玉井詩織 高城れに 有安杏果
佐々木彩夏ももいろクローバーZ
伊藤沙莉 芳根京子 金井美樹
井上みなみ 多賀麻美 藤松祥子 坂倉花奈

 舞台「幕が上がる」が映画「幕が上がる」と大きく異なるのは原作小説「幕が上がる」の作者、平田オリザが自ら脚本を担当したことである。映画版の監督である本広克行が舞台の演出も担当したとはいえ、脚本を喜安 浩平(ブルドッキングヘッドロック)が担当し、さらにそれに監督、本広が手を加えた映画には「平田オリザの作品」とは受け取り難いところもある。
 それに比べると演出までは手掛けないとはいえ、舞台「幕が上がる」は同時多発の会話など平田戯曲の現代口語演劇のスタイルをほぼそのまま反映されている。平田作品ならではの感触を色濃く残したものとなっている。
死は関係性の不在なのであり、平田オリザの「関係性の演劇」 において「死」 そのものを直接的に描き明示することはできない。だから、「死」は大抵隠喩あるいは「不在」として描かれる。
映画「幕が上がる」が青春と演劇を主題に展開された「陽」の作品とすると舞台「幕が上がる」は対照的に「陰」の基調低音が作品全体が覆っている。もちろん、中西さんが被災地岩手で経験したこともそうだが、「陰」=「死」のイメージは劇中で繰り返されるさまざまな小さな不在により強化される。
だが、全体を覆う「死」のイメージのなかでもっとも印象的だったのはラストの「銀河鉄道の夜」である。最後に有安杏果が演じる中西さんが制服姿で登場するのだが、上演中も観劇後も制服の意味を何度も反復して考えた。もっとも説得力のある解釈は「稽古しているところに制服のままの中西さんが戻ってきた」というものだが「中西さんが大丈夫だった」というだけならジョバンニ役のユッコが衣装姿なのだから普通にカンパネルラの衣装でもいいところだ。それならこの場面に何の疑問も持たなかったはずだ。
 実は初日にこの場面を見たときにはスポットライトに照らされて天上に浮かび上がる中西さんの姿を見て、「この世のものではない」という印象を感じた。もちろん、劇中劇「銀河鉄道の夜」の物語上ここに登場しているのは「死者であるカンパネルラ」なわけだから、この世のものならぬ印象というのは間違ってないわけなのだが、初日の終演後にまず考えたのは「果たして中西さんは本当に生きた人間としてここにいたのだろうか。つまりこの物語に登場した時から実は死者だったのではないだろうか」という解釈の可能性だった。
 そのように考え、2度目の観劇時にはそうした解釈が成立するような伏線が何かないだろうかと目を皿のようにして舞台を凝視したのだが、さすがに中西さん=死者という仮説はそのままではいささか無理があるようだった。ただ、こんな風に考えたのにはまったく根拠がないわけではない。
ひとつは高校の演劇部を描いて劇中劇として「銀河鉄道の夜」を取り込んだこの舞台版「幕が上がる」 には、高校演劇の関係者だったら誰でも知っているであろう有名な先行例があるからだ。それは「破稿銀河鉄道の夜」である。阪神大震災の直後に被災地である神戸高校により上演され全国大会でも高い評価を受けた作品だ。
「破稿 銀河鉄道の夜」のあらすじはこんな風だ。

ある日の放課後。高3のカナエは進路面談をさぼって、演劇部の部室でひとり肉体訓練に励んでいる。同学年でやはり演劇部のサキはそんな彼女が心配だ。サキが話しかけるがカナエは上の空だ。サキが進路を決める面談にいき、カナエは銀鉄(「想稿・銀河鉄道の夜」の台本を読み始める。そうするとそこに親友で演劇部の仲間のトウコが現れる。2人は演劇部の思い出を楽しく語り始める。しかし、実はそれはカナエへのトウコからの別れのための思い出話であった。トウコは震災で命を失いいまはここには存在しない人だったのだ。カナエはトウコを失ったことに耐えられず共演した舞台と決別することができないで、上演後台本を破り捨てるという演劇部の伝統も守れずにいた。しかし、カナエは2人(本当は1人で)でジョバンニとカンパネルラを演じていくなかで「カンパネルラはだれの内にもある」という台詞を受け入れていく。トウコとの別れの後、サキと神戸の夜景をみるカナエ。街も自分もまだ癒えてはいないが、もう大丈夫。2人が帰った部室。置き去ったままのラジカセからは想い出の、新しい出会いを歌う、ゴダイゴ銀河鉄道999のテーマが流れるのだった。

 「破稿 銀河鉄道の夜」で2人の登場人物(トウコとカナエ)が演劇部の卒業公演でジョバンニとカンバネルラを演じるはずだったができなかったことが冒頭の会話で示される。しかし、その時点では公演ができなくなった理由は伏せられている。そしてもうひとつ。登場人物のうちのひとりであるトウコは登場した時からいまはもういない「死者」だったわけだが、そのことも観客には伏せられている。
 物語の進行に従い少しずつ感じる違和感から、この2つの伏線に気がついた瞬間、そしてこの物語全体が神戸の口語表現により描かれていることから、セリフではっきりと示されるわけではないけれど、卒業公演が行われなかった理由は阪神大震災であり、しかもそれでトウコが亡くなったことが了解される。そういうことすべてがセリフで示されるわけではなく、あくまで暗示として示され、観客である我々によって了解される。それが「破稿 銀河鉄道の夜」の凄さであり、今でも覚えているが客席でそのことに気がついた時、背筋がぞわっとするような感覚を覚え、最後のゴダイゴの歌に思わず目から熱いものが零れた。
 「幕が上がる」に話を戻そう。原作である小説「幕が上がる」においても、映画「幕が上がる」においても東日本大震災は実は大きな基調低音のように物語の底に流れていた。それは平田オリザが演劇部が上演する作品として「銀河鉄道の夜」を選んだ時点で実は暗示されていたことではあった。
ところが小説、映画ではあくまでそれは物語の底流としてあるというだけで、震災のエピソードは表面化することはなかった。一方、小説でも映画でも中西さんは何らかのトラウマによって演技中にセリフが出てこなくなるということは示されるのだが、そのプレッシャーに耐えきれず転校することになったということは示されても、何がそれを引き起こしたかは言及されることはなかった。
 ところがこの舞台版の中盤にいたってカラオケ店の場面で中西さんの突然の長台詞での告白が現れ、実は彼女は前の学校の前には岩手県に住んでいて、そこで自らは家族や知人が亡くなるということはなかったが、避難先の体育館などで実際に被災した人に何人も会い、どうしても忘れることのできない大きな衝撃を受けたということを語った後、ひとりで店を飛び出していく。舞台の作者である平田オリザはここでついに「幕が上がる」の中核をなしていた宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と東日本大震災の悲劇を直接結びつけた。
 それゆえ、先に挙げた「破稿 銀河鉄道の夜」のことなども勘案してみれば小説、映画とは異なり、カンパネルラを演じる中西さんがすでにこの世のものではないという可能性は中西さんの被災エピソードを知った瞬間にまず頭の片隅を占めたのだ。この解釈には偶然ともいいかねるような偶然ももうひとつからんでいた。それは雑誌の平田オリザ特集に掲載された「幕が上がる」の戯曲で最後の有安杏果が言うセリフの役名がカンパネルラではなく、ジョバンニと記載されていたことだ。これはその後、平田本人に直接確認したところ「それは誤植」とのことで一件落着となったが、この奇妙な出来事は今でも隠された何かがあるのではないかと疑ってしまっている。
 それというのは先に挙げた「破稿 銀河鉄道の夜」にはちょっとした仕掛けがあった。それは亡くなってしまったトウコがカンパネルラを、残されたカナエがジョバンニを演じたということになって、こうした大勢の犠牲者が出る災厄において、そうでなくても残されたものはなぜ生き残ったのが自分であって〇〇ではなかったのかということを考えるものだと聞くが、カンパネルラを演じるはずだったカナエは余計にそのことにこだわり罪の意識を感じていたという話となっていたからだ。
中西さんもカンパネルラを演じたわけだが、カラオケボックスの場面で告白したように震災の時に感じたなぜ自分は生き残ったのかという疑問が「銀河鉄道の夜」でカンパネルラを演じることで再び噴出したことはあるのかもしれない。  
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