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Kawai Project「ゴドーを待ちながら」@こまばアゴラ劇場

作:サミュエル・ベケット 翻訳・演出:河合祥一郎
出演 原田大二郎、郄山春夫、中山一朗、稲葉能敬、宮下紘樹、古閑理
スタッフ
翻訳=河合祥一郎
照明=富山貴之
音響=星野大輔(サウンドウィーズ)
舞台監督=小田史一(NON GATE THEATRE)
制作=久保庭尚子、伊藤香津代
制作協力=Real Heaven

2人の男がゴドーなる人物を待ち続ける。ゴドーが誰なのかもよくわからないまま。なぜ2人は待ち続けなければならないのか。そしてやってきたポッツォとラッキーとは? 『不条理劇』のレッテルを貼られてきたこの芝居の意味を、フランス語の原文とベケット自身の英訳にもう一度立ち返り、丁寧な解釈を施すことによって、新鮮にかつ劇的にこの劇のおもしろさを再構築します。ベケットがテキストに籠めた意味を?正しく?舞台化することを目指す正攻法で勝負します。

これから書くことは演劇史の記述としてそれほど一般的な言説として確立されたものではない。実は「関係性の演劇とはなにか」*1と題する小文で当時「静かな演劇」などと呼ばれていた平田オリザらの演劇を「関係性の演劇」と位置づけ、その原型は「不条理劇」と呼ばれてきたベケット作品、そのなかでもなかんずく「ゴドーを待ちながら」にあると論じた短い論考を書いた。

「関係性の演劇とはなにか」(抜粋)
ベケットの書いたこの物語については、不条理劇の傑作として日本でも様々な形態で演出、上演されているし、この作品に啓発を受けた作品も枚挙にいとまがない。だが、これは実は「関係性の演劇」としての構造を持っているのだ。この物語の主要な登場人物はエストラゴンとウラジミールという二人の人物であり、この二人がゴドーというこの物語には登場しない人物を待ち続けている。ここで観客の前に与えられる構造はこれだけである。この物語の核心はこの三人の関係の中にあり、全てがそれだけに収れんする。

 エストラゴンとウラジミールがどういう人物なのかはこの物語のなかでは読み取れない。舞台の上では二人の対話が延々と繰り返されるが、それによって二人の素性が明らかになってくるということもない。むしろ、浮かび上がってくるのは鏡像のような関係の二人と二人が待ち続けて、そして舞台にはついに現れないゴドーという人物との関係の三角形なのである。だから、この芝居においてはエストラゴンにもウラジミールにも関係の三角形の一辺という以上の内実はない。これは独立した存在なのでなく、構造を浮かび上がらせるための仕掛けであるからだ。そういうわけで、エストラゴンにもウラジミールにも「個人としての内面」など存在しない。これが私が考える「関係性の演劇」の特質である。

 「ゴドーを待ちながら」(原題 "En attendant Godot" )は「ゴドー待ち」などと呼ばれて日本の演劇関係者にも広く親しまれてきた。80年代演劇を代表する鴻上尚史の舞台、第三舞台朝日のような夕日をつれて」(1981年初演)がこの作品を下敷きとしていたのは有名な話だ。才人いとうせいこうもウラディミールとエストラゴンにひたすら「待たれる」ゴドーを描いた「ゴドーは待たれながら」というパロディ作品を発表。つかこうへいもやはりパロディーである「松ヶ浦ゴドー戒」を書いている。このように日本の現代演劇に与えた影響は大きい。
 以前は上演も多く、私もそのうちのいくつかを見ているがそのまま上演すると上演時間が2時間半前後と長くなることもあり、多くは原テキストを一部改作、あるいはカットしての上演だった。ある時期までの小劇場系の上演では退屈だと判断してか第2部をそのまま上演した例はむしろ少なかったように記憶している*2
 ところが近年ではサミュエル・ベケットの生前遺志により、この戯曲の上演はオリジナルのテキストに正確に忠実であることが要請され、台詞は一言一句たりとも改変は許さないというポリシーで著作権管理され、日本でもこれに反した上演を行ったために著作権管理者から抗議を受け、謝罪を余儀なくされた例がある。そのためか、はっきりとした統計数字はないので、印象にすぎないことはあらかじめ断っておきたいが、昔と比べる上演される機会は減っているのではないか。
今回の上演はどうだったか。ヴラディーミル役を原田大二郎。彼とともにゴドーを待つエストラゴン役に高山春夫が演じた。両者ともに熟練の俳優である。奇をてらったような演出上の新解釈などはいっさいなく、新訳で言葉はこなれてなじみやすくなっているものの「ゴドー」としてはきわめて正当派、オーソドックスな演出といえよう。原戯曲へのカットもいっさい行っていないために上演時間も第1幕80分、途中休憩15分、第2幕70分と合計2時間45分。こまばアゴラ劇場のような小劇場で上演される芝居としてはきわめて長い。
しかも、この作品は第1部と第2部が若干の違いを含みながら、ループするような構造となっているために第2部を見ていると次第にこの場面は前にも見たのではないかと「デジャブ感」に襲われるようになってきて、それこそ延々と続くヴラディーミル・エストラゴンの同じようなやりとりに最後の方には「まだ終わらないのか」さらには「この芝居は永遠に終わらないのではないか」というような気分にとらわれてくる。しかも、この日は満席で私は若干出遅れてぎりぎりで劇場に着いたため補助席の小さな椅子にすわったためもあって最後にはお尻もつらくなってきて、上記の感想が倍加されたようなところもあった。
 この「延々と続く」とか「退屈で時に睡魔に襲われる」というような感覚はおそらくベケットの狙いでもあって、テキストのうえからも、第1幕、第2幕の間がセリフに最初に出てくるように「次の日」なのか「永遠に近い長い時が経過した」のかはどちらにもそれなりの根拠はあり確定ができないような構造となっている。ただ、実際の舞台がいくぶん退屈であるということは両者のうち「永遠かもしれない長い時間」の表象として働いているのは間違いなく、神とも目されるゴドーという謎の存在と相俟って、この舞台にただの日常劇ではない感覚を与えていると思えた。
 「オリジナルのテキストに正確に忠実、台詞は一言一句たりとも改変しない」という条件がもともと自らの手による新たな翻訳と原テキストの意図に出来るだけ忠実な上演を前提としたKawai Projectの方針とうまく合致していたといえるかもしれない。河合祥一郎といえばシェイクスピアの翻訳者・研究者として知られ、これまでの2回の公演は「から騒ぎ」「間違いの喜劇」と予想通りにシェイクスピアを上演してきたがその意味ではKawai Project第3回公演がベケットゴドーを待ちながら」だったのは意外と理にかなっていたかもしれない。
 個人的にはそれがベケット別役実平田オリザという水脈につながるものと考えているだけにそれが平田の本拠地であるこまばアゴラ劇場で上演されたということも興味深かった。

*1:「関係性の演劇とはなにか」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000317

*2:関西のみの上演だが、後藤ひろひとらが出演していた秋山シュン太郎演出の「ゴドーを待ちながら」ではSF的な解釈がほどこされて第2部は大幅に改編されていた。そのほかにも改編されたオリジナルじゃないよと表題を一部変えて、オリジナル作品として上演した例は枚挙にいとまがない