ももクロ&アイドル blog

ももいろクローバーZとアイドルについてのブログ

批評を巡る冒険

 私が取り上げる対象は現代演劇であるので、現代の表現として刺激的なものを見たい。それが、最初の条件である。できればそれまでに見たことのない独自の新しい表現でその作家が射程として捉える問題群を的確に反映した表現であってほしい。第二のつかこうへい はいらない。それは表現者としてはゼロだと思うからだ。
 もちろん、独自の表現というものは一朝一夕に完成するようなものではない。だから、特に若手の作家たちには現時点での完成度は求めない。なにを実現しているかよりも、何をやろうとしていたのかという可能性により大きな刺激を感じる。たとえ今は表現として破綻している失敗作であっても志の高さの有無で判断したいのである。
 第2の条件は演劇表現としての笑いについて、真摯に考えてほしいということがある。日本の現代演劇のなかで主流となる小劇場演劇の世界では劇場に笑いに来るという客の存在が懸念されるほど、笑いは作品世界の中核をなす要素となっている。だが、それにしては表現としての笑いに対する意識の高さが感じられる表現者が少なすぎる。
 ここで、こういうパターンでギャグを振っておけば客は笑うだろう。こんな安易な笑いに対する態度やセンスのなさを感じてしまうとそれだけで、ほかの部分で演劇的に高度な表現をしていても興ざめしてしまう。おそらく表現としての笑いを低く見る意識からこんなことが起こるのだと思う。
 実は前にある演劇雑誌に掲載された劇評で大阪の遊気舎という劇団の芝居を評するのに「笑いが見たいのなら寄席にいく」と述べた演劇評論家がいた。この集団はモンティ・パイソンの系譜を引くシュール系の笑いを表現の中心に置いているのであり、彼らの表現に対して批評するならば、その芝居での笑いの要素の出来不出来をこそ問題にすべきで、表現の手段として笑いを含んでいること自体を問題にしても木によりて魚を求むの類でしかない。こうした、演劇批評の世界での笑いに対する意識の低さが、演劇表現者の笑いに対する意識に低さを助長している面がある。
 もちろん、ナイロン100℃大人計画、先に挙げた遊気舎など笑いに対する意識が高く、それが表現の独自性にも通じている集団は少数ながら存在するのだが、そうした集団の表現が正当に評価をされなところに日本の演劇批評の貧しさがある。そういう現状から演劇表現として笑いにこだわらざるをえないのだ。
(「上方芸能」寄稿原稿)