「演劇の新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて 第5回 柿喰う客=中屋敷法仁」
主宰・中西理(演劇舞踊評論)=演目選定
東心斎橋のBAR&ギャラリーを会場に作品・作家への独断も交えたレクチャー(解説)とミニシアター級の大画面のDVD映像で演劇を楽しんでもらおうという企画がセミネール「演劇の新潮流」です。今年は好評だった「ゼロ年代からテン年代へ」を引き継ぎ「ポストゼロ年代へ向けて」と題して現代の注目劇団・劇作家をレクチャーし舞台映像上映も楽しんでいただきたいと思います。
今回取り上げるのは柿喰う客の中屋敷法仁です。中屋敷は青森県出身。高校時代から演劇部で活躍、高校3年生の時に書いた『贋作マクベス』が、翌年の2003年に全国大会まで進んで、その時の審査員だった平田オリザから最優秀創作脚本賞をもらうなど早熟な才能を示し、2006年に「柿喰う客」を旗揚げして以降はまたたくまに人気劇団となり、劇作家・演出家としてもパルコ劇場のプロデュース公演に起用されるなど、この世代のトップランナーとしての地位を確固たるものとしつつあります。
「ポストゼロ年代へ向けて」では現代口語演劇の流れから少し離れた新潮流をポストゼロ年代演劇と位置づけ、柴幸男(ままごと)、三浦直之(ロロ)、篠田千明(快快)らを紹介してきました。ポストゼロ年代演劇と呼ばれる彼らには共通の特徴をまとめてみると1.その劇団に固有の決まった演技・演出様式がなく作品ごとに変わる2.作品に物語のほかにメタレベルで提供される遊戯的なルール(のようなもの)が課され、その遂行と作品の進行が同時進行する3.感動させることを厭わない――などですが、それまでの現代口語演劇中心の流れに対して、自ら「反・現代口語演劇」と標榜するなど積極的に名乗りを挙げて世代の代弁者となっているのが中屋敷です。
柿喰う客「悩殺ハムレット」
【日時】6月22日(金) 7時半〜
【演目】「悩殺ハムレット」「露出狂」「真説・多い日も安心」など
レクチャー担当 中西理
【場所】〔FINNEGANS WAKE〕1+1 にて 【料金】¥1500[1ドリンク付]
※[予約優先] 定員20人ほどのスペースなので、予約をお願い致します。当日は+300円となりますが、満席の場合お断りすることもあります。
【予約・お問い合わせ】 ●メール fw1212+120622@gmail.com あるいは BXL02200@nifty.ne.jp(中西) 希望日時 お名前 人数 お客様のE-MAIL お客様のTEL お客様の住所をご記入のうえ、 上記アドレスまでお申し込み下さい。 06-6251-9988 PM8:00〜 〔FINNEGANS WAKE]1+1 まで。 web:fw1plus1.info Bridge Gallery & Bar 〔FINNEGANS WAKE〕1+1 大阪市中央区東心斎端1-6-31 リードプラザ心斎橋5F (東心斎橋、清水通り。南警察署2軒西へ)
柿喰う客プロフィール
2004年
中屋敷法仁のプロデュース団体として演劇活動開始。
旗揚げ公演『サバンナの掟』を上演。
その後も公演活動が続く。
2006年
1月、正式に劇団化。
10月、『人面犬を煮る』で川崎ラゾーナ・プラザソルの杮落とし公演に参加。
2007年
11月、『傷は浅いぞ』で、王子小劇場「佐藤佐吉演劇賞」から【優秀演出賞】【最優秀主演女優賞】【最優秀助演女優賞】等を受賞。
12月、『親兄弟にバレる』で、フジテレビ主催「お台場SHOW-GEKI城」に参加。【TOKYO★1週間イチオシ!】受賞。
2008年
1月、『サバンナの掟』で世田谷パブリックシアター主催事業「フリーステージ」に参加。
3月、『恋人としては無理』で初のフランス公演(第17回フランシュコンテ国際学生演劇祭参加)。
6月、『俺を縛れ!』で王子小劇場主催「佐藤佐吉演劇祭」に参加。【最優秀作品賞】【こりっち賞】【シアターガイド賞】等を受賞。また、同劇場の最高動員記録を達成。
2009年
3月、『恋人としては無理』で初の国内5都市ツアー(横浜、愛知、福岡、大阪、札幌)。
9月、『悪趣味』上演。5周年記念公演。
11月、三重県文化会館のアーティスト・イン・レジデンス事業に参加。『スポーツ演劇「すこやか息子」』を発表。
2010年
1月、『宴会芸レーベル』で文化庁主催「オパフェ!」参加。
ポストゼロ年代の演劇には「演劇なのか、ダンスなのか分からないもの」のように、物語の要素が薄かったり、解体・再構築されていたりするようなものが多いのだが、その意味でいうと柿喰う客の場合、スタイル自体は多様でありながら、きわめて「演劇らしい演劇」の体を崩さないところがひとつの特徴であろう。
ただ、そのスタイルは従来の演劇作家と比べるときわめてポストゼロ年代的である。下にこの集団を観劇してから間もないころのレビューをいくつか引用してみたが、まず最初に気が付き、とまどったのは1本ずつの芝居のスタイル(様式)の偏差が大きすぎて、柿喰う客というのはこういう芝居をやる劇団ということを言いにくかったことだ。
最初期に見たのは「恋人としては無理」「悪趣味」、そしてDVDを購入して映像を見た「真説・多い日も安心」の3本だったのだが、
柿喰う客「恋人としては無理」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20090328/p2
イエスとそれに従う十二使徒の物語を下敷きにした演劇だが、普通にそれが演じられるのではなく、奇を衒ったかとも思われる演出・演技法によって展開されていく。この劇団がどういうスタイルの劇団かはほとんど知らないで見たため、最初は「これはいったいどういうことなのか」と思ったのだけれど、しばらく見ていて思ったのは「これは惑星ピスタチオがやっていたスイッチプレイじゃないか」ということだ。厳密にいえばもちろん違うのだけれど、いろんな人が次々と同じ人物を演じていったり、ひとりの人が別の人物を演じていったりというスタイルは似ていることは確かだ。
演技はどうやら単純なルールに基づいて行われていく。イエス(作中ではイエスくんと呼ばれる)とそれに従う十二人の弟子たちを巡る物語だが、弟子たちはもちろんのこと、ピラトやエルサレムの住人たちといった周囲の人物までをすべて5人の役者で演じるために、それぞれの人物はそれぞれ帽子、傘、本、酒瓶といった持ち物を属性として持っていて、それを持っている人がその人物だというルールに従って演技が行われる。
つまり、例えばペテロ(ぺてろ)は「上着を肩から覆っている女」、ヤコブ(やっこさん)は「扇子を振り回す男」、ヨハネ(よはねっち、ぺてろの妹)は「ぬいぐるみを抱く女」、アンデレ(あんちゃん)は「書物を持つ男」、バルトロマイ(ばるぞー)は「新聞紙を振る男」、フィリポ(ふぃりぽ)は「酒を飲む女」、マタイ(まーくん)は「カバンを離さない男」、小ヤコブ(こぶさん)は「何かを被った男」、タダイ(たださん)は「帽子を被った女」、シモン(もんちゃん)は「傘を操る女」、トマス(とまちゃん)は「布に隠れる男」、ユダ(ゆだりん)が「ヘッドホンを装備した女」という風にそれぞれに見た目に分かりやすい特徴を持たせている。言いかえればそれを演じているのがだれだろうが「ヘッドホン」をつけておればそれはユダ、「上着」を覆っていればペテロ、「傘」ならシモン……といった風で「上着」なら「上着」、「ヘッドホン」なら「ヘッドホン」というモノが役者から役者へ手渡しで移動していくとそれに従って、「役」も次々と移動していくし、今度は特定の役者の方に視点を移して見ればひとりの役者がいろんなモノを手渡されることで、あるときは「ペテロ」ある時は「ユダ」といろんな人物を次から次へと演じることになるのだ。
こういう風に文章で書くとなにかすごく複雑なことをやっている難解な芝居かのように感じるかもしれないが、実際に舞台を見ていると複数の人物が演じても最初はややとまどうけれど、次第に自動翻訳機能のように役者の演技の向こうに、十二使徒をはじめとするそれぞれの人物像が立体的に浮かび上がってくるのが演劇の不思議である。
ただ、こういう類のものとしては偶然にもこの日のアフタートークゲストでもあった末満健一が作演出したTAKE IT EASY!「千年女優」を見ているので、スイッチプレイ的な演技・演出の様式的の安定度を比較するならば、そちらの方に軍配が上がるかもしれない。ただ、この日初めて見た柿喰う客には荒削りなところに若さの勢いを感じさせた。そういう意味では決してうまいとはいえないけれど、その荒削りに逆に無限の可能性を感じさせたブレークする直前の惑星ピスタチオに実際の演劇のスタイルではなく、舞台から匂ってくる匂いのようなものおいて逆に近い感覚を感じたのも確かなのである。
この劇団の演技のもうひとつの特徴はある時はラップのような調子、別の時はそれとは全然違うがやはり早口言葉のようなリズムでとスピード感溢れるセリフ回しをすることだ。しかもそれを時には激しく動き回りながらするので、それはおそらく俳優にとっては相当な負荷の高さあり、それをかなしているのはなかなかに凄いことだと思う。
もっとも、この日のスタイルというのはいつもそうだというものではなく、この「恋人としては無理」という作品だけのものではないかと思い、終演後確かめるとその想像はどうやら当たっていたようで、この舞台のスタイルにどうも完成度においてしっくりこないものを感じたのはそのせいもあるのかもしれない。いずれにせよ、どの部分がこの劇団の方法論において本質的なもので、どの部分がからなずそうじゃないかということは他の芝居も何本か見てみないと分からないと思われ、その意味で次の観劇の機会もぜひ持ちたいと思った。
柿喰う客「悪趣味」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20090905/p2
「ゼロ年代」と呼ばれた岡田利規、前田司郎、三浦大輔らの世代に対して、ポスト「ゼロ年代」と呼ぶべき一群の作家たちが登場しているのではないか。そんな風に強く感じさせられたのがこの春にこまばアゴラ劇場で開催された6人の若手演出家作品の連続上演、「キレなかった14才♥りたーんず」であった。元々、演劇ないしほかの分野のアートにおいて世代論だけで、作家を語るのは問題と考えたのが「関係性の演劇」「身体性の演劇」という基本タームを生みだし、時系列ではなく、共時的な作品構造において作品を語ろうというのが私の批評スタンスであった。
そえゆえ、彼らをことさらに取り上げ「テン世代」などと言いだしている一部東京の新しいもの好きの言説に加担するべきかどうかには若干の躊躇があるのだけれど、前述の岡田らが基本的に現代口語演劇として平田オリザらの作業を継承しているのに対して、この新しい世代のなかにそういう先行世代の作風から身体表現への大きな揺り戻しがあり、その代表が快々(篠田千明)であり、この柿喰う客(中屋敷法仁)ではないかと思ったからだ。
もっとも、快々についてはDVD映像ではいくつかの作品を観劇したものの実際に劇場で見たのはまだ「キレなかった14才♥りたーんず」での篠田作品と吾妻橋ダンスクロツシングでの小品だけで、劇団の本公演を見ていない。篠田は中心メンバーのひとりではあるけれど、快々自体は集団創作を標榜していて特定のリーダーはいないような構成になっているので、その立ち位置についての評価は保留しておいたおいたほうがいいかもしれない。いずれにせよ、柿食う客(中屋敷法仁)はこの後続世代のトップランナーのひとりであることは間違いないようだ。しかも、中屋敷の場合、アフタートークなどの場で「アンチ・会話劇」「アンチ・現代口語演劇」などと自分の立場をあえて挑発的に広言したりするところが興味深い。
では実際の「悪趣味」はどんな作品であったか。一言で言えばコメディーの風味でまぶしたスプラッタホラー風活劇といったところだろうか。これまで見た中屋敷の作品「恋人としては無理」「学芸会レーベル」はいずれも素舞台に近いほとんどなにもセットのない空間に役者が身体ひとつで世界を構築していくような作風で、しかも少数の俳優たちが複数の登場人物を次々と演じ分けていくというようなものであった。そのため、作品の方向性自体は大きく異なるけれど、演技・演出的な部分で私が連想せざるをえなかったのは惑星ピスタチオ(西田シャトナー)であった。
しかし、この「悪趣味」は全然違う作風。劇場に入ると舞台上に崩れかけて地面に埋まってしまい上半分だけになってしまった鳥居とか、いかにもなにか出てきそうな古井戸(映画版「リング」に出てくるようなのを想像してほしい)がリアルに作りこんである凝りに凝ったセットが仕込んであって、それを背景になにやら森の中で「化け物」のようなものと戦いを繰り広げているらしい村人の集団や村に住むなにか秘密を持っているらしい一家、この森の村に伝わるという“化け狐”伝説を探りにきたという大学教授とその助手、森に自殺するために入ってきた女、近所の池にいるらしい河童とその一族、ゾンビーになって行き返った村長……という多彩な人物たちが入り乱れての活劇調の舞台である。
誤解を恐れずにこれが私に先行する舞台との類似においてなにを連想させたかというと劇団☆新感線のスタッフによって上演された「犬夜叉」、あるいは大人計画の「ファンキー!!」などなのだが、その類似というのはそれほどでもなくて、この作品の感じさせるある種の質感、例えば映画や漫画などの先行テキストを縦横無尽に引用してコラージュしたような作風とか、全体に漂うどことなく作り物っぽくウソくさい雰囲気、B級っぽさに共通するものを感じたからだ。「――北東北の山深き寒村、霧田村。人を食い殺す“化け狐”伝説が残るこの村で身元不明の惨殺死体が見つかった時村人たちの運命の歯車は、少しずつ狂い始める―」というのが劇団公式サイトに掲載されている「悪趣味」の筋立てである。しかし、筋立てそのものはこの舞台においてそれほど大きな意味をそれ自体で持っているというわけでもない。「悪趣味」の表題通りにそれはむしろステレオタイプで陳腐といってもいいかもしれない。
ステレオタイプ・陳腐などというと否定的なことを言っているように聞こえるかもしれないけれど、それでいいのだ。というのは「ステレオタイプ・陳腐な筋立てなのに面白い」というのがこの柿喰う客の特徴で、この集団、あるいは作・演出の中屋敷法仁にとっては物語も劇世界もそこで遊ぶための遊び場以上のものではないように思われるからだ。
この「悪趣味」ではいかにもそれ風というB級ホラー的な世界を舞台に映画や漫画などからの引用あるいは元ねたをひねってのくすぐりなどをちりばめながら、役者たちの身体を駆使させて縦横無尽にその世界を遊んでみせる。そこのところの無茶苦茶さが面白い。実際、例えばホラーの常道であるどんでん返しを入れたために人物設定的にはつじつまが合わなくなってしまったところなども、解消せずにそのまま放置されていて、アフタートークでは「その方がB級ホラーっぽいから、その方がいいと思いあえてそうした」などと確信犯ぶりを強調している。
実はこの「悪趣味」という作品を見て最初はひどく驚かされた。というのは冒頭でも書いたようにこれまでは中屋敷作品としては「恋人としては無理」「学芸会レーベル」の2本を見たのだが、この「悪趣味」はそれとはあまりにも作風が違いすぎて*3、彼らがどんなタイプの演劇を志向する集団なのかがはっきりと焦点を結ばなくなったからだ。
実はこの日会場で売られていたDVD「真説・多い日も安心」も見てみると、AV業界と始皇帝が統治していた時代の秦を二重重ねにするというずい分変なことをやっているのだけれど、身体中を使ったり、走り回ったりしながらの演技はどう考えてもこれは野田秀樹じゃないかという感じなのだ。
それで思ったのはこれはひょっとすると美術で言うところのアプロプリエーションではないのかということであった。
これは美術評論家である椹木野衣の著書「シミュレーショニズム」 (ちくま学芸文庫) に出てくる用語なので詳しいことはそちらを参照してもらうことにしたいが、美術系のサイトからアプロプリエーション(Appropriation)の定義を探してみるとこういうことになる。
アプロプリエーションAppropriation
「流用」。既製のイメージを自作のなかに取り込む技法としては、すでに今世紀初頭の段階で「コラージュ」や「アサンブラージュ」が開発されていたが、「アプロプリエーション」は一層過激なものであり、「オリジナリティ」を絶対視する近代芸術観を嘲笑するかのようなその意図と戦略は、しばしば高度資本主義との並行関係によって語られることになった。代表的作家に数えられるM・ビドロ、S・レヴィーン、R・プリンスらが近年いずれも失速を余儀なくされているのを見ると、この動向が80年代のポストモダニズムとの密接な関係のうちに成立していたことが了解される。なお、流用に際して必ず何らかの変形を加えるのも「アプロプリエーション」の特徴で、代表的手法としては、引用よりは略奪と呼ぶのが相応しい「サンプリング」、切断を交えた「カットアップ」、絶えず反復する「リミックス」などが挙げられる。
(暮沢剛巳)
要するに「サンプリング」や「リミックス」のことなのねと言われれば、まあ、その通り。シアターガイドのインタビューに中屋敷は次のように答えている。
「本当に演劇オタクなので、影響ってことで言えば、野田秀樹さん風でもあり、松尾スズキさん風でもあり、KERAさん風でもあり、アングラ風でもあり……おいしいものを無理矢理くっつけてるんだと思うんです。最初から、自分の方法論がないところが、方法論になってたかな」
これは特定のスタイルを持っていないことに開き直っているようにもとれるけれど、前述のアプロプリエーションなどを考慮に入れて考えれば、「おいしいものを無理矢理くっつけてる」(つまりサンプリング、コラージュ)自体が中屋敷独自の方法論と考えられなくもない。若手の劇作家の作品が自分ならではの方法論を模索している間、その人が好きな特定作家に似てしまうというのはよくあることで、最初は柿喰う客(中屋敷法仁)もこの段階かとも考えてみたのだが、これもう少し様子を見てみないと確実にこうだと言い切ることはできないのだけれども、どうやらこれは違う。ひょっとして、完全に確信犯だという印象を強く受けたのである。
コンテンポラリーダンスの場合には珍しいキノコ舞踊団が「ダンスについてのダンス」(メタダンス)というような言われ方をしていて、最近は私はそれを「ダンスを遊ぶダンス」と位置づけているのだけれど、それになぞらえて言えば柿喰う客は「演劇を遊ぶ演劇」ということができるのかもしれない。そういう風に考えると中屋敷が自分の演劇人生の原点を学芸会だと考え「学芸会レーベル」という作品を創作したのは興味深い。珍しいキノコ舞踊団の伊藤千枝も自らのダンスの原点を幼稚園(保育園)時代のお遊戯会であるとしていることで、そういうところにもこの2つの集団には意外な共通点があるのかも考えさせられたからである。
1:http://kaki-kuu-kyaku.com/
2:シアターガイドによる中屋敷法仁インタビュー http://www.theaterguide.co.jp/feature/kaki/
3:前者が惑星ピスタチオなんかを連想させるとするとこちらは劇団☆新感線や昔の大人計画を連想させた
柿喰う客「いきなりベッドシーン」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20100428
柿喰う客「露出狂」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20100608
柿喰う客「THE HEAVY USER」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20100721
柿喰う客「愉快犯」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20110123
柿喰う客「悩殺ハムレット」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20111010
小劇場系の演劇でシェイクスピアの翻案・改作を行うのは珍しいことではないが、面白くやるということは簡単なことではない。ましてそれが「ハムレット」となるとなおさらだ。少し思い出して見るだけでもトム・ストッパードによる「ローゼンクランツとギルデンスターン」、横内謙介「フォーティンブラス」など「ハムレット」を下敷きにした2次創作作品やピーター・ブルック「ハムレットの悲劇」までさまざまな趣向での新演出など挙げていけば枚挙にいとまがないほどで、そういう前例を踏まえて新しいことをやらなければ意味がなくしかもそれを面白くというならなおさらハードルが高いからだ。
柿喰う客(中屋敷法仁脚色・演出)版の「ハムレット」にはいくつかの特徴があった。最大のそれはすべて女優だけのキャストによる上演だということだ。シェイクスピアで女優というと「女たちの十二夜」が有名である。だが、これは主要なキャストを男装した女優が演じはするけれど、例えば道化役には生瀬勝久が出演するなど実は男優陣も出演していて、女優だけのシェイクスピアではない。青い鳥も「ハムレット」を上演したことがあり、これもハムレットは女優が演じているが、実は男の役を女優が演じ、女の役を男優が演じるという逆転バージョンのキャスティングなのだった。
だから女優だけの上演は珍しい。と書きかけて重要な公演を失念していたのを思い出した。いるかHotelによるシェイクスピアの連続上演「The Comedy of Errors 〜間違いの☆新喜劇?〜」*1「からッ騒ぎ!」「十二夜!ヤァ!yah!」*2である。こちらは正真正銘、女優だけ(オールフィメール)によるシェイクスピア上演だった。もっとも同じ女優だけの上演と言っても、いるかHotelのはいずれも喜劇(コメディ)で、登場人物がすべて関西弁を話すことから、上方喜劇の風味がミックスされていたのに対して、柿喰う客が挑戦するのが四大悲劇のひとつである「ハムレット」であり、次も「マクベス」らしいから悲劇が当面続くことになりそうなのは志向の違いもはっきり出ていて興味深い。
ただ今回の場合、本当の特徴はむしろ登場人物のすべてが渋谷にたむろしている若者のような口語体をさらにデフォルメされたような若者言葉を使っていることかもしれない。そのため、舞台の印象としてはデンマークの王家の人々の間に起こる争いというような側面は薄れて、下手したら不良グループの頭目同志の争いの程度にしか見えず軽薄との批判もまぬがれず出てくるとは思うのだが、その分、今の若者たちを中心とする観客には腑に落ちるようなイメージの読み替えだと思う。
深谷由梨香のハムレット、右手愛美のガートルードとも魅力的だが、なんといっても異形の存在感を見せていたのはフォーティンブラス(七味まゆ味)。スキンヘッドに頭頂の髪のみを残したヘアスタイルにも吃驚させられた。当たり役だったと思う。
もうひとつはシェイクスピアのテキストを最低限度必要だと思う部分を抜粋してつなぐような形で通常は3時間程度、すべてカットせずに上演すれば4時間以上がかかるともいわれている「ハムレット」を、スピード感あふれる演出ともからめて、コンパクトで見やすく仕上げていることだ。
作品を短くするとカットされることも多い、フォーティンブラス、ローゼンクランツとギルデンスターンのくだりや劇中劇も原作通りにちゃんと流れを抑えて入れ込んでおり、ほぼ原作に忠実な物語に仕上げているところに中屋敷のセンスのよさを感じた。
柿喰う客「検察官」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20111128
柿喰う客「絶頂マクベス」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20120430