ももクロ&アイドル blog (by中西理)

ももいろクローバーZとアイドルを考えるブログ

2000年2月下北沢通信日記風雑記帳

 2月29日 今週末(3月5日)はいよいよトリのマークの観劇オフ会です。ただいまのところ申し込みわずかに3人(+チャコさんのもしかしたら)で、あまりに少ないのでニフティサーブで同じ時にオフ会を企画していたかわひらさんとの合同オフということにさせてもらいます。もちろん、土曜日までまだ募集を続けはしますが、相手側の会場予約の問題もあるので、以前のように当日滑り込みでと考えている人がいればそれほ少し困るので、事前に名乗りでてください。今週末はいろいろ公演が重なってたんでそれでも困ってたのですが、3月4日夜ポかリン記憶舎「オン・シツ」、5日は昼にreset-N「黎明」を見た後、夜はトリのマーク「regolith 惑星を覆う土」の観劇オフ会です。

 

 2月28日 NODA MAP「カノン」も第七病棟「雨の塔」もチケット取れずチケット争奪戦またもや負け犬の中西です。発売日の26日は会社だったので、何度か予約電話を入れてみたものの予想どおり無理。こういう人気公演に縁遠いゆえ、ますますマイナー好みになっていくこのページの定めなのでした。 

 2月27日 バレエ「ホセ・カレーニョとラテンの旋風」を観劇。 

 2月26日 仕事が6時過ぎに終わったので、少し迷ったものの、結局流山児★事務所は断念して当初の予定どおりDance Theatre LUDENS「Be」(7時〜、パークタワーホール)を観劇した。観客が少ないのを見て一瞬、後悔したのだが、これが予想以上(失礼)に面白かったのである。最初、ノイズ系の音楽に乗せてダンサーが次から次に出てきて勢いをつけて横回転しながら舞台に飛び込むのを見て、ありゃりゃまた性懲りもなくユーロクラッシュ系の動きをお前はヴィム・ヴァンディケイビュスか(笑い)と思った。この手の動きは若手のカンパニーで時折見かけるのだが、多くの場合、柔道の受け身みたいになっていて、以前のラ・ラ・ラ・ヒューマンステップスのように超絶技巧で突き抜けたところがあれば見られるのだが、多くの場合、本家も含め粗さが目立つことが多いので、これがずっと続くようじゃ飽きてしまうぞと思ったころ、ダンサーが2人1組で踊るようになって、生気を放ちはじめた。

 これはと思ったのはおそらくこのカンパニーの看板である太田ゆかりという女性ダンサーの魅力である。ダンサーに限らず優れたパフォーマーには大別すると2種類があって、ひとつはその等身大を超えた存在感により観客を圧倒してしまうような凄みを見せられるタイプ。演劇でいえばク・ナウカの美加理、ダンスではH・アール・カオスの白河直子、、北村明子、バレエで言えばシルヴィ・ギエムなど典型的にこのタイプだといえるかもしれない。もうひとつは表情が豊かで、愛嬌があり、親しみやすくてあっというまに観客の気持ちを奪って、応援してあげたいように感じさせてしまうようなタイプ。元上海太郎舞踏公司にいた沖埜楽子などはこのタイプの特異な才能を持ったパフォーマーだと考えているのだが、この太田ゆかりというダンサーもすました感じで踊るダンサーが多いコンテンポラリー系のダンサーの中では珍しくその豊かな感情が過剰な激情の表出という形でなく、「これは困ってるな」「悲しいのかな」という風に言葉を使うことなく自然に観客に伝わってくるのである。その特質をうまく生かしたのがあたかも猫が足にじゃれつくように彼女の足に執着するスキンヘッドのダンサーとそれを軽くあしらう太田というコンビが抜群だった「猫じゃらし」のシーン。さらに「キャー」と太田が声を上げて倒れると慌てて男性ダンサーが飛びだしてきて、地面に倒れる前にリフトするという場面が繰り返されるところ。さらには身体についた脂肪を気にするようにわき腹から足と身体のいろんなところをつまむよな仕草を繰り返しながら踊るソロ。こうした場面が可笑しくて思わず笑ってしまうのだが、それは無理に笑いを取りに行ったというあざとさはなくて、そこはかとなく可笑しいというところに岩淵多喜子という振付家のセンスのよさを感じたのである。

 振付自体は複雑なリフトの連鎖とかヨーロッパのコンテンポラリーダンスの影響を強く感じる。特にそれが2人とか3人の少人数の組みあわせによるダンサーそれぞれのキャラクターの個性を生かしての関係性の提示により進んでいくところはガロッタの振付を彷彿とさせるところもあるのだが、それが単なる模倣にとどまらずにちゃんと彼女独自の表現に消化されているところに好感を持った。もちろん、そうしたよさが群舞の時になるとあまり見られなくなり、凡庸な感じを受けるなどのものたりなさもこの作品にはあるのだが、、バニョレ国際振付賞のヨコハマプラットフォームなどを見てもレニ・バッソ以外にあまり魅力を感じられなかったり、新しい才能はなかなか出てこないの思いを強くしていただけに少なくともこうした方向性を突き詰めてこの次の作品ではどんなものを作ってくるのかが気になる楽しみなカンパニーがひとつ増えたとの感想を持てた意味で収穫だった。

 2月25日 2月は遅れてしまったので反省の意味を込めて、今月は3月のお薦め芝居を早めに掲載することにした。バニョレ国際振付賞のヨコハマプラットフォームについてのレビューを早く書かなきゃならないとあせっているのだが、当日配られた資料がどこかに紛失してしまい、見つからなくてなかなか書くことができない。

 現在の表紙の背景は「トリのマーク」の公演写真でけっこう気に入ってはいるのだけど同じ写真だけだとそろそろ飽きてきてもいるので、春ぐらいにはそろそろ変えようかなとも考えている。本当は好きな劇団の公演写真を月替えで載せたいなと思っているのだが、今の私の環境ではスキャナーもない状態なんで、それもままならない状況である。そういうわけで、できれば私がレビューとかに書いたことのある劇団の関係者の人で、表紙に写真使ってもいいよという人がいればテキストファイルで送付してくれるか、ホームページに写真がある劇団なら、これを使ってもいいよというのをメールで知らせてほしい。もし、そういう奇特な劇団があればのことだが。それから、表紙にトリのマークの写真館と題して写真付きレビューのコンテンツへのリンクがあるのだけど、これも他の劇団でもぜひやってみたいと思っているので、もし写真テキストファイルで提供してもいいよという劇団があればメールしてほしい。と書いてもどの程度の関係者がこのページを読んでいるのか分からないので、のれんに腕押しの感が強いのだけど。 

 2月24日 表紙からリンクの特別掲示板で募集中のトリのマーク観劇オフ会(3月5日)依然、3人しか集まっていない。トリのマークどんな劇団か知りたい人は表紙の伝言板へのリンクの下に主宰の山中正哉さんのインタビューと昨年の公演の写真付きレビューのページへのリンクがあるので興味を持たれたらそこも覗いてみて、面白そうだなと思ったらオフ会に参加して下さい。 

 2月23日 セッションハウス「21FES PARTY vol.4」についての感想。神楽坂のセッションハウスの企画したダンス公演で今回はいずれも20代の若手の女性ダンサー・振付家の作品5つを集めた公演という。上演されたのは以下の5作品。

1、手塚夏子 /「ふらっと」/手塚夏子(ダンス)、古池寿浩(トロンボーン
2、都丸永子 /「Toward the Sea」 /都丸永子
3、金井久美 /「the vew in the arm」/金井久美
4、伊藤真喜子 /「台風」 /伊藤真喜子
5、ラブハウス (山田珠美、山田郷美)/「sis2」 /山田珠美、山田郷美

 最初の手塚夏子「ふらっと」はいわゆるダンスというよりはパントマイム的な具象的な動き。人差し指を立てて鼻筋の下にもってきて、静かにというような意味を持った動きから入り、指先で視線を導きながら身体を動かしていく。その後も座っておせんべいを食べたり、伸びをしたり、ねそべったり、その姿勢からお尻を尺取虫のように持ち上げてみたり、それぞれの動きはマイム的な具象性を持ちながらも、それをシークエンスのように少しずつパターンを変えながら何度も何度も繰り返すことで動きでなんらかの意味そのものを表現することの多いマイムから意味の脱落したダンスの世界へとずらしていく。ただ、この人の動きは仕草世を取り入れたダンスというよりは解体されていても仕草そのものであり、ダンスのムーブのように洗練されていくことへの方向性はあまりないよう。仕草も構成の点であまりにミニマルすぎて、ところどころ可笑しなところもあって、魅力もあるのだが、何度も繰り返されているうちに若干退屈してしまうというところもある。

 都丸永子 「Toward the Sea」はもう少しオーソドックスなスタイルのモダンダンスという感じだが、イマイチ振付に強烈な個性が感じられないところが、少し時間がたってみると印象が弱い。

 この日見た中で一番、面白かったのが金井久美の 「the vew in the arm」。最初はコートを羽織って、大きな旅行鞄を下げて、ゆっくりと揺れるような動きを繰り返すのだが、少しも激しい動きではないのに微妙な身体のしなりの中に独特のしなのようなものを感じる。動きに色気(言葉そのものの意味でなく、比喩として)があるのである。大きな鞄を下げているので、それが動きを制約しているのだが、その束縛された動きがかえって面白い。後半、コートと靴を脱ぎ捨ててネルのような柔らかな感じの布地の衣装で前半の拘束された動きから解放されたように足をあげたり、スパイラルな回転を見せたりするのだが、構成上もこの後半には鎖から解き放たれたような自由な感じを受けて楽しい。振付家としての力量はこの小品を見ただけでは未知数の部分はあるが、ダンサーとしては実に魅力的でもういくつか他の作品を踊っているのを見てみたいと思わせるところがあった。

 一方、伊藤真喜子「台風」はやはりダンスのムーブメントというよりは舞台を息を切らして走り回ったり、劇場の壁に沿って、倒立したままバランスをとったり、「台風前夜」の異常に高揚した気分を無言の演劇的パフォーマンスで表現した作品。面白さはあるのだが、それはダンスとしての面白さとは微妙にずれがあるような気がしないでもない。

 ここまでのダンサー・振付家はいずれも初見だったが、最後のラブハウスは珍しいキノコ舞踊団に参加しているダンサー山田郷美と振付家として自分の作品を作るとともにレニ・バッソなのにもダンサーとして参加していた山田珠美の2人によるユニット。特に山田郷美が最近のキノコの公演では珍しくソロ部分を担当したりして、面白かったので、期待して見守ったのだが、ここからなにかがでてきそうな予感は感じてもどうもそれがなになのかまだはっきりしていない感じ。バロックの音楽に乗せて踊るところなどでは若干、キノコで見られる山田郷美の魅力の片りんはうかがえたのだが、はたしてこれが狙いなのかどうか。前半の人形のようにぎごちなく動くところなど無機質な動きでは彼女の持ち味はあまりでていないが、静岡で見た山田珠美の作品から考えるとこちらの方がこのユニットの方向性なのかなという気はする。だが、そこは私にはあまり面白いとは思えないのだ。早川朋子による衣装も私はちょっとセンスに合わなかった。今まで気が付かなかったけど、当日のパンフの作品へのコメントに「自分に最も似ているはずの遺伝から成る彼女を見る」とあるから、この2人は姉妹であるようだ。そうだとすると、このユニットは一過性のものでもなさそうなので、今回首をひねってしまった部分も含めて、どんな作品を作っていくのかもう少し見てみたいという気はする。

 2月22日 桃太郎について。猫演劇フェスティバルのテーマとなったのが猫となんの関係もない桃太郎だったのには少し驚いた。というのはその前の土曜日の深夜に友人と電話で桃太郎の謎について電話で雑談をしたばかりだったからである。なぜ桃太郎の話を友人とすることになったのかというと、ちょうどその日の夜中に「オズの魔法使い」の黒人ミュージカル版「ウィズ」がテレビ放映されていて、それを見ながら、なにかに似ているという話をしていて、主人公が3人のお共を連れて旅をする話といえば「桃太郎」じゃないかということになったからである。その時になぜお共というのが3 人(3匹?)なんだろうという話になって、そういえば3人の家来(?)を連れて旅をする話というのは「西遊記」もあるじゃないか。さらに横山光輝の漫画「バベル2世」にも3つのシモベとかいたような気がするとか、そうはいっても水戸黄門には助さん、格さんの2人しかいないとか、しかし、風車のヤヒチがいる。あれは違うんじゃないかとかけっこうくだらない方向にその時の話はそれていったのだが、結局、やはり3人ということにはなにか意味があるんじゃないかということになったのである。

 今、手元に資料がないので、詳しいことは書けないのだが、実は桃太郎の話には日本の中国思想研究家の本に陰陽五行説にもとづいた解釈があって、これがけっこう面白い。どういう説かを覚えている限りで紹介すると桃というのは邪気をはらう神聖な果物であるということが中国では信じられていて、そういう性質を持つ桃の化身が鬼を退治するというのが桃太郎という話の骨子なのだが、なぜお共が犬、キジ、サルなのかというと十二支をそのまま方位に当てた中国の思想がその裏にあるのである。鬼というのは東北(丑寅)の方角を鬼門というようにこの方位に関係のあるものなのである(よく描かれている鬼が角をはやし、虎革のパンツを履いてるのはのもちろんこのためである)が、これに対してそれとは反対の方位(方位でいうと西)に申、酉、戌があって、丑寅の存在である鬼に対してのアンチパワーとして、サル、キジ(鳥)、イヌが必要とされたという解釈なのである。

 これはけっこう解釈としては巧妙で感心させられたのだが、これとて、なぜ3匹なのかという疑問に対してこたえてくれているわけではない。第一、反対の方向といっても12方位から言えば申、酉、戌は東北の正反対(南西)というわけではあくて、寅の反対方向に申があるものの、丑の反対方向は未(ヒツジ)であり、酉と戌は申から見て、未とは逆の北方向にそれぞれ30度、60度ずれているので、理屈の整合性としては少し根拠が薄弱のような気もするのだ。ただ、ここで思いだしたのは「西遊記」にも申(孫悟空)と亥(猪八戒)と午(馬)がでてきたなということで、河童というのは日本で創作されたイメージで、実は河海豚とされている沙悟浄が説明できないのが難点だが、「西遊記」の起源も12方位(十二支)すなわち陰陽思想と関係があるんんじゃないかと思われてくる。

 さて、十二支といえば猫がその中になぜかいないことはそのこと自体が寓話になっているほど有名な事実だが、その「猫」を冠としたフェスティバル(祝祭)の統一テーマがその十二支の思想(猫の不在)に彩られた「桃太郎」だったというのはなかなか意味深長な現象であったといえるかもしれない。しかもそのトリ(酉)を猫ニャーが否定の演劇で飾ったということも、ロリータ男爵の「犬ストーン2000」の客入れの最中になぜだか芝居の中には登場しない猫が舞台に居続けたのと並ぶほどに不思議な符号として感じられてくるのである(笑い)。

 2月21日 猫演劇フェスティバル、えんげきのページの一行レビューとかでもえらく評判悪いようだが、いったいどうしたことだろうか。私には十分面白かったのだが。もっとも、★4つつけてもいいと下には書いたが、私の場合、本公演のレベルを期待していたのではない。本公演ではないこの手のお楽しみ企画としてはそれぞれが持っているらしさが出ているし、毛色の違った劇団の競作として、「桃太郎」というテーマをそれぞれの劇団がどのように扱うのかに明確に方向性の違いが出ていて、企画として成功しているんじゃないかという評価なのだ。

 だから、芝居としては3つの作品がいずれも成功しているというわけではない。拙者ムニエル「生命の瞬間(とき)」は「桃太郎」を比較的オーソドックスにパロディーとして構成している。この芝居を見るかぎりはこの劇団の売り物は加藤啓、小手伸也をはじめとする役者のキャラクターの面白さをストレートに役柄に落としこんでいくところではないかと思った。宇宙船内部のシーンなどコント的な場面ではシュール系のギャグも使うが、切れ味鋭いというほどではない。尖ったセンスというよりはキャラクターの馬鹿ばかしさとかで笑わせるという点ではエンターテインメント演劇の王道を行っているともいえる。それだけに取っ付きやすさはあり、そこそこ楽しめるのだが、私にとってはまだ「ここならでは」という特徴までは見えているとはいえず次回公演できっちりと作りこんだものを見てみたいという感想となった。

 一方、猫のホテル「くちぐるま」は与えられた時間内で自分たちの世界を作ろうとしたため、無理がでて、結局構造を作りきれなかったという印象が残った。池田鉄洋、森田ガンツらさわやかさとはほど遠いねちっとした濃い存在感を持つ役者陣をそろえているのがここの特徴で、その持ち味はこの作品でも発揮されてはいたが、残念ながら海外からの企業研修生という題材を取り扱ったのにその問題への切り込み方があまりにもステレオタイプという感は否めない。こういう形で、「桃太郎」をメタファーとして使うとしたら、実在の国を実名で出すにはもう少し周到な準備が必要なのじゃないか。演技とかの部分で劇団のカラーははっきりと出ていただけに惜しまれたのである。

 最後の猫ニャーだが、これを私が面白く思ったのは上演時間の制約があったため本公演よりもより純化された形で、あらゆる制度性の解体というこの集団の作劇の特徴がコンパクトに詰めこまれた芝居になっていたことである。猫ニャーの場合、通常の本公演だと2時間の上演時間があるとするとそのうち1時間半ぐらいはあまり意味のないナンセンスなだらだらとしたシーンが続いて、そこである構造が提示された後、残りの30分ほどでそれまでの設定や前提を完全に無化するような怒涛の構造破壊がはじまるのだが、今回の芝居では「猫演劇フェスティバル」という仕掛け自体を前段に使いほとんど構造破壊ばかりが展開されるのである。それはブルースカイならでは毒というか確信犯としての悪意に満ちたものであり、それはある時には「桃太郎」→「鬼」→「赤鬼」という連想から NODA MAP(野田秀樹)に向かって、言葉遊びや走り回って台詞を話すような演劇スタイルの揶揄を行ったり、野田秀樹だけではなく80年代演劇のスタイル(正面を向いての台詞の群唱やある種の政治性の提示)の悪趣味な模倣になったりする。

 しかもブルースカイの場合、それを一切の説明なしにやるので、この芝居で初めて猫ニャーを見た人にはどの部分が揶揄でどの部分が猫ニャー本来のスタイルなのかもはっきりとは分からない形で、置き去りにされてしまうというのがいかにもここらしいところなのだ。この芝居全体のスタイル自体、鬼に搾取されて働かされている人たちのところに救世主として、「桃太郎」一行がやってくるが、彼らはなぜか背中に原発(?)を背負っているという素性の悪そうな風刺劇のスタイルを借りて、進行する。もちろん、表層的には「桃太郎」=アメリカの比喩かとか読み取りによってはいろんなことが読み取れるのだが、当然ながらブルースカイの狙いはそんなところにはない。一見最後までそういうスタイルを継続しながらも最後の「核兵器2%削減」を連呼するところで、ある種の政治劇の無意味性や同根の政治運動の無意味性を逆照射するわけで、こういう所に猫ニャーのスタイルが純化した形で発揮された芝居であり、そこが面白かったのである。

 2月20日 この日も朝起きたら2時をまわっていて、結局、流山児★事務所はあきめて、猫演劇フェスティバル(3時〜)を見る。猫演劇フェスは企画ものの公演ということでイベント的なのりなのかと思いあえて、お薦め芝居では★★しかつけなかったのだが、実際に見にいってみると3劇団ともけっこうしっかり芝居をつくっていて、中でも猫ニャーの出来栄えが秀逸で、これなら★★★★つけてもいい公演であった。今週末まで公演予定はあるので、前売りはけっこう売れてるらしいが、スケジュールの空いている人はお薦めである。ただ、3劇団ともしっかり芝居作りをしていたので、上演時間が2時間半と長く、終演時刻が6時近く、最初に予定していた岩松了の芝居を見るのはあきらめて、ちょうど同じ時に観劇していたウニタモミイチ氏と彼と同行していた宮永正隆さんと一緒に三鷹駅前で飲んだ後、宮永さんの後について猫フェスの中盤打ち上げに参加することに。この日の収穫はこの企画を主催した拙者ムニエル村上大樹にけっこうゆっくりと話を聞けたこと。彼は「とかげ親父」「じゃばら」(初演)のころの遊気舎の芝居が好きで、そういう方向性を目指したということを聞き興味を持った。若い世代の演劇人で大人計画ナイロン100℃が好きで影響を受けたという話はよく聞くのだが、関西はいざ知らず東京の劇団では珍しいのではないだろうか。

 拙者ムニエルはこれまでどうもスケジュールの回りあわせが悪くて、本公演を見ることが出来ないでいたのだが、次回公演「サマージャンボリー(仮)」(7 月7〜16日、駅前劇場)は猫ニャーの小村裕次郎も客演が決まっているようで、一度、しっかりと本公演で見極めたい劇団であると思っている。

 

 2月19日 そんなわけで、起きたら2時を回っていたので、流山児★事務所は断念。セッションハウスのダンス企画「21FES PARTY」(4時〜)を見る。その後、イデビアン・クルー「不一致」(8時〜)を観劇。イデビアン・クルーは前半のお葬式に集まる参列者たちの関係性を提示しながら、そういう静粛なシチュエーションに起こりがちなそこはかとない可笑しさを提示したような部分と前半部、後半部に2度はさみこまれた井手茂太の自分のダンスをたっぷり見せていくところとのバランスが絶妙で、秀逸な舞台であった。その分、最近のいくつかの公演であったコンテンポラリーダンスらしいフォーメーショナルな群舞があまりなかったのは少し残念ではあったが、ソロも含めた個別のパフォーマーのダンスで見せる部分がこれまでだと斉藤美音子ひとりに片寄りがちなのが、複数のダンサーがソロ的な部分を担うなどカンパニーとしての総合力が確実にステップアップしていることが確認できた。音楽にラテンのしかも最近の音楽というより、少し昔の曲想のものを使い、こういう音楽に合わせて踊ると普通ならある手のショーダンスのように通俗的になりがちなのをそうはならないように微妙にずらしているところなど、井手独特のセンスのよさを感じさせるところであった。

 2月18日 ロリータ男爵の主宰、田辺茂範インタビューを一部掲載。テープ起こしをやっていたら明け方になってしまい全部は収録できなかった。未完成版だが、このまま放置しておくとまた掲載が遅れそうなので、とりあえず、起こした分だけを掲載することにした。  

 2月17日 今、会社の方が異動シーズンで、仕事のスケジュールが流動的で、今週、来週の観劇スケジュールもなかなか決まらなかったが、やっと、どうにか予定が分かったので書いておく。今週末は19日の土曜日がひさびさに土曜休みで、昼、流山児★事務所「幸せな日々 HAPPY DAYS」を見た後、夜はイデビアン・クルー「不一致」の予定。流山児★事務所の方は先週、ブリガドーンの終演後、ロビーでKERAと顔を合わせた時に「頼むからこないでください」などと言われて、どんな風になってんだろうと逆に興味を引かれてしまった(笑い)。イデビアン・クルーはなんとかチケットも取ったのでひさびさに体調も整えて、しっかりと見なくては。20日は当日券狙いで昼は猫演劇フェスティバル(3時〜)を見た後、夜はたぶんEUBUゼミ岩松了「空ありき」(6時半〜)の予定。来週末は26日土曜日は朝から出社になったが、会社が早めに終わればDance TheatreLUDENS「Be」(7時30分〜、パークタワーホール)に行こうかと思っている。27日はバレエ「ホセ・カレーニョとラテンの旋風」(1時半〜)。このところバレエ公演は行こうと思った時に限ってなにか起こったりして落ち着いて全編を見ることができないでいるので、今度こそという感じ。土曜が出社になってしまったのでB級遊撃隊とアガペ・ストアの公演はちょっと難しいか。

 募集中のトリのマーク観劇オフ会(3月5日、6時〜)あまりの反応のなさに書き込みやすいようにと専用伝言板を復活させたのだが、依然、申し込みはゼロである。チケットの方はその後、売れているのだろうか。トリのマークの皆さん、微力どころか無力で申し訳ありません。  

 2月16日 お薦め芝居2月を遅ればせだが掲載。3月は遅れないようにしなければ。 LEDという劇団から以前、このページに書いた文章を情宣資料に使いたいのでよろしくというメールをもらう。もともと、このページを始めた目的のひとつに私がかかわっていたJAMCiははじめ、演劇雑誌がなくなっていくことで、若い劇団がレビューのようなのもので取り上げられる機会というのが少なくなっていくということがあり、マスメディアのような媒体に取り上げられるまでのつなぎをこういう形で埋められればということがあった。だから、情宣資料やチラシなどでここでの文章を使うことは基本的には歓迎なのでもしこのページを見た劇団の人で使いたいという人があれば場合によっては要約や加筆なども含め柔軟に対応するつもりなので、メールなどで連絡してほしい。私の知らないところで勝手に不適切な部分が引用されているというのは困るけど。それから、どうしても少し忙しくなるとコンテンツの更新を優先してしまいたいということがあって、ページのリニューアルやリンク集の整備が全然できないのだが、表紙ページへのリンクもこちらは特に断らなくてもリンクフリーなので、リンクしてくれるという奇特な人がいればお願いします。最近、またまたアクセスが減少傾向でモチベーシ」ョンが下がりがちなので(笑い)。コンテンツ更新が怠りがちなのでアクセスが減ってるんだろうとというのはあるのだが。

 トリのマークの観劇オフ会予想通り全然反応なくて悲しい。観劇オフ会は昨年このトリのマークを皮切りに何度か開催したのだが、最初の時ほど意欲がなくなってきたのは当日参加の常連を別にすると集まりが悪いんだよね。現在のアクセス状況ではある程度予想されることではあったのだけど、本当にこの公演見たことない人にはお薦めなんで、重ねてお願いします。3月5日、6時〜の公演です。

 2月15日 コンテンポラリーダンス3「ボーダレス時代の個性たち バレエ〜舞踏」をダンスレビューに追加。

 2月14日 伝言板でトリのマーク「regolith(レゴリス)〜惑星を覆う土〜」(3月5日、6時〜)の観劇オフ会を募集しています。そうとう集客がピンチの状態らしいので、一度見たいなと思っていた人はぜひ参加表明お願いします。  

 2月13日 南河内万歳一座「流星王者」、ブリガドーン「セックスはなぜ楽しいのか」を観劇。これはひさびさヒットじゃないかと思ったのが南河内万歳一座の「流星王者」だった。ほぼ同世代なので、けっこう考えていること分かった気がするということがあって、それが内藤裕敬の芝居を見るとこれまでこっ恥ずかしいアンビヴァレンツな感情に襲われる要因ともなっていた。六畳一間での自分探しに拘り続けた内藤には「分かるけど、いつまでそれを続けるの」とつっこみを入れたくなったり、そこから離れて少年の目から中年(父親)の目線の芝居に変わったりするとそれが逆に妙に口惜しくて、「内藤お前もか」などと寂しくなったりしたのだ。

 「流星王者」は高度成長と言われた少年時代から、石油危機、バブルの狂乱、そしてポストバブルと二十世紀後半を駆け抜けてきた自分の世代へのオマージュとして内藤が書いた一種の世代論演劇といえるかもしれない。団地族の日常、ここには「なにかできるはずだったのに無駄に過ごしてしまった」という中年男の一種、自虐的ともいえる悔恨がこめられている。急行列車に争って乗るうちに着いたのはこんなところにくるつもりもない終着駅だった。近所のうわさ話に花がさく団地、ジャイアント馬場が駅前のパン屋にやってきたあのころ。こうした失われた風景へのノスタルジアだけなら、よくあるが、そういうものを振り捨てて、私たちは前に前に進まなければならなかった。それを個人史というだけでなく、群像劇として、コラージュの手法を多用しながら構築してみせたのが、アイデアだと思う。

 ともすると叙情性に流れるのが、内藤戯曲の魅力であるとともに欠点でもあるのだが、今回は時代論という骨太な主題に取り組んだためかその叙情性が甘さに流れず、苦みを伴ったせつなさとして胸にトンと落ちてきた。  

 2月12日 ジョセフ・ナジ「ヴォイツェック」を観劇。海外カンパニーの公演だからといってこういうのをほめてはいけないような気がする。残念ながら私にはそれぐらいつまらなかった。まず、これは評価でもなんでもなく単なる分類の問題なのだが、以前見た「カナール・ペキノワ」は演劇やマイムを要素として取り入れながら明らかにダンスとして独自のスタイルを評価しうるものであったが、この「ヴォイツェック」は言葉を使わなくても基本的に演劇であってダンスではないということ。それゆえ、あくまで演劇としての評価軸で考えていくことにしたいが、演劇としてはスタイルが60年代のアングラ演劇を彷彿とさせるくらい古い。現代演劇であるというざん新さがあまり感じられないのである。日本の太田省吾や上海太郎の例を持ち出すまでもなく、無言劇という形式自体はそれだけでは決して目新しいものではないし、パンフにあるような「これまでまったく類例のない無言のパフォーマンスとして」などというほどのものではない。もちろん、重要なのはどういうスタイルの無言劇かということで、そのことに関しては白塗りを思わせるような泥ぬり(?)のメークやグロテスクな意匠といい、ここから連想されるのはカントールの「死の教室」であつたり、日本の60年代のアングラ演劇や暗黒舞踏であったりしても、けっして、現代を連想させるものではないのである。

 そして、もっとも致命的なのは「ヴォイツェック」というこのテキストをこういう形式で舞台化することに対するアクチャリティーが2000年の今、日本という国に生きている私にはなにも感じられなかったことだ。旧ユーゴスラビア生まれで、ハンガリーで教育を受け、フランスに移住しているナジの経歴を考えるとおそらく、この作品には19世紀のドイツの劇作家であるビュヒナーの劇作に託して、現在のヨーロッパの政治的な状況のようなものを語ろうとしているのだとも考えられるが、その辺のことはこの無言劇という形式においてはよく分からない。フランスでこの作品がどのように評価され、受容されたのかは興味がないではないが、少なくとも舞台からはそれは分からなかったし、予備知識なしで日本人がそれを分かるというのは無理ではないか。頭の上に砂が降り続けるところなど馬鹿馬鹿しくて笑えるところもないではなかったが、その手のことだけなら、ロリータ男爵を引きあいに出すまでもなく日本の舞台にもっといいものがいくらでもある。面白くなかったものはそうだと言うべきだと思ったのである。

 2月11日 ロリータ男爵「犬ストーン2000」を観劇。ロリータ男爵は今、私がもっとも期待している若手劇団だが、この芝居も期待にたがわぬ面白さであった。ストーリーの説明をしてもその面白さを伝えるためにはどうにもならないのが、ロリ男の芝居の特色だが、それでも「信長の素」「地底人救済」などでは一応の語るべきストーリーなり趣向なりはあったのだ。ところが、この「犬ストーン」という芝居はストーリにまったくどうにもならないほど意味がないのである。もちろん、ストーリーはあるにはあるのだ。犬になりたかった男がこれを集めれば犬になれるという伝説の犬ストーンを探すというロールプレイングゲームを思わせるストーリーが。しかし、なぜよりによって犬に(笑い)。だれでも、まずつっこみたくなるこの疑問を完全に置き去りにしたまま、芝居は強引につぐ強引な展開で、クライマックスに向かって突き進んでいく。この果てしないまでの設定の意味のなさが解消しないままにそれでも無理筋をつっこんでいく凄まじいパワーがロリータ男爵の魅力といえるかもしれない。

 犬についてのプロはだしの技術を駆使したアニメやコンピューターグラフィックス。映像をふんだんに使いながら、それ自体がまったく無意味である数々のガジェット的なアイデア。客入れの時から舞台上にいた着ぐるみの猫は結局、本編にはなんの関係もなかったし、ミュージカルの形式を取っているとはいえ、客入れでピアノの生演奏でエリック・サティを演奏していて、格調高いのに本編に入るとどこまでも歌もダンスのしょぼいままだし、こういう無駄な贅沢さがなんとも嬉しい。

 笑いに対する意識の強い若手劇団ということでどうしても猫ニャーなどと比べてしまいがちなのだが、今回、この「犬ストーン2000」を見て考え付いたキャッチフレーズがある。それは「B級新感線」である(笑い)。新感線はもちろんあの劇団★新感線である。音楽への強いこだわり。登場人物のデフォルメされた濃いキャラクター。パロディー的な笑いへの志向性。新感線という劇団自体もともとB級的なものに対する志向性の強い劇団だから、それに対してさらにB級とはどういうことかということにはなるだろうが、まず新感線のいのうえひでのりにあって、田辺茂範にないのは格好よさの追求であろう。

 もちろん、田辺にも田辺なりの美学があるのは間違いないが、おそらく、いのうえひでのりがシャーシャーと描き出すようなヒーロー像が田辺には恥ずかしいのではないかと思わせるところが、この芝居からは感じられる。だから、この物語ではこれを集めると犬になれるという伝説の石、犬ストーンなどという神話的な構造を持ちだしたうえで、登場人物それぞれのキャラクターをひねって逆転させることで、そうした神話的な構造に基づく、ヒーロー物語を日常性の側にことごとくひっくり返していくのである。つまり、いのうえと異なり田辺には人間のカッコワルさへの美学があるんじゃないかと思ったのである。

 それは例えば、主人公がおもちゃ屋の息子であるということとか、一応、黒幕であるはずの犬公方という謎の人物の悪の魅力とは正反対のどうにも情けない造形にもあらわれている。もちろん、そこここに挿入されているとてつもなくしょぼい、それいてどこか心魅かれる歌とダンス(?)もそれを一層、増幅させている。どう考えても心に残る名曲とは思われないのに「犬って咬む」のリフレインが今もなぜか脳裏に残って追い払おうとしても追い払えないのだから(笑い)。

         

 2月8日 今週の観劇予定。11日は当日券が厳しいという噂だが見られればナジ「ヴォイツェック」を見た後、夜はロリータ男爵「犬ストーン2000」。 12日は仕事が早めに終わればハイレグ・ジーザス「東京≧大阪」。13日は夜はプリガトーン「セックス〜」、昼はダンスか南河内万歳一座「流星王者」。とにかく、今週はロリ男に賭けてます。田辺さんにも先日会ってインタビュー収録したんだけど、今度の公演には間に合いそうになくてごめんなさい。でも、今回の作品については犬になりたいという男の話ということぐらいしか分かりませんでした(笑い)。後ひとつだけあった。この「犬ストーン」という作品は田辺さんの処女作で当時、田辺君は周囲の人(多摩美の友人)からナイロン100℃とか大人計画が面白いと聞いて、自分もそんな作品にしたいと思って、この作品を書いたのだけど、まだ、ナイロンも大人計画も実際に見たことはなかったので友人の話から想像して(笑い)、こんなのじゃないかと書き上げたのがこの作品で、その後、実際に見にいったら想像していたのと全然違っていたそうです(笑い)。この話を聞いた時にはそんなばかなと思った後、「地底人救済」にでてきた地底人(想像図)というのを思いだして、おもわず笑ってしまったのですが……。ちなみにいろんな劇団と仲良くなりたいのに友だちが少ないって嘆いていたのですが。猫演劇フェスティバルにも声をかけてほしかったらしいけど、どうするの。猫ロリータ男爵?。せっかく、唯一、仲良くなった超歌劇団は静岡の劇団なのでめったに会えないって言ってたけどそりゃそうだよなあ(笑い)。

 2月7日 CRUSTACEA「ISH vol.4 〜mu-〜」について。オリジナルメンバーの濱谷由美子、椙山雅子に加え、前田里奈、廣本知子、三並加奈子と3人の新メンバーを加えての新生 CRUSTACEA。新たに3人のメンバーが加わった。濱谷によれば「全然ダンスできない若い子に向ける時間もかなりついやした」ということで、これまでにない苦労もあったようだが、その甲斐あってか、新メンバーも濱谷の世界によく溶け込んできていて、やっとダンスカンパニーらしい人員構成になってきたと思わせるものがあった。

 珍しいキノコ舞踊団がその仕草性で「少女性」を強調するとすれば、CRUSATCEAの濱谷由美子の創作するダンスはよりコケティッシュに「女」を強調する。本人がどこまで意識しているかは別にして、これまでも黒の下着を着て踊ったり、バスローブの衣装で色気を振りまいたり、観客への挑発という意味ではかなり戦略的である。今回のダンスでも、身体のラインを強調するような衣装を着てダンサーは登場する。そこで踊りながら、観客に向かって投げキッスのような仕草を繰り返したりする。こうしたところが、観客に媚を売っているとか言われて一部のフェミニズムの方々や良識派といわれている人たちの顰蹙を買いかねないあやういところなのだが、こうしたサンプリングされ「記号化」されたコケットな仕草に対して、ダンスのムーブメントはどちらかといえばアスレチックな要素が強いカラッとした動きなのである。舞台のそでから思いっきり走ってでてきて、そのままの勢いで舞台上にいるダンサーに飛び掛かってそのままリフトされたり、そのダンサーの近くをハイスピードですりぬけて反対側の壁にぶつかったりする。、扇情的なコケティッシュな「記号」としての「女」はここにおいて、宙吊りにされて、湿度を感じさせないものに変貌してしまう。コケットを前提にしながら一方ではそれと正反対の動きの中に投げ入れることで、それを無意味化していく。これがCRUSTACEAのダンスの特徴である。

 CRUSTACEAの場合、ここにさらに色物とも一部で称されているような「笑い」に対する志向性が加わる。この作品でも選曲において、突然、懐古趣味か「買い物ブギ」や「篭の鳥」が飛びだしてきたりして驚かせる。こうした音楽に合わせてのずれた動きとかこのミスマッチ感覚がなんともおかしい。かと思うとすぐに曲想が変われば、それとともにスピード感のあるアスレチックなダンスに戻っていったりする。おそらく、濱谷にとっては「パンク音楽」も「クラシック」も「河内音頭」も「買い物ブギ」も素材としての区別はないのだろうと思わせる、このなにものにも拘泥しない自由さが濱谷の作品の魅力なのだ。

 作品として見ると今回の舞台はこれまで以上にダンスへの志向性が強い。ムーブメントにおいてはまだまだユーロクラッシュ系のダンスの影響を感じさせるところも多く、より一層、CRUSTACEAならではオリジナリティーを突き詰めていってほしいと思うところもないではないが、このカンパニーにここしかない個性があるのは間違いない。それはバニョレ振付賞などを見ても明らかに既存のダンスの模倣と思われる作品が散見される現在の日本のコンテンポラリーダンスの貧しさを思うと貴重なことで、より大きな場をどこかで与えられることで飛躍してほしい。そう感じさせられるところのあった舞台だったのである。 

 2月6日 スフィアメックス・フリンジダンスフェス出田由美子「Reliefn 浮彫り」/CRUSTACEA「ISH.vol.4 〜mu-〜」(3時〜)を観劇。

 2月5日 トリのマーク「ゆるやかな家、虹が流れる」(3時〜)、バニョレ国際振付賞ヨコハマプラットフォーム1日目(6時〜)を観劇。

 演劇に関係ないことばかり書き込んでいると顰蹙を買いそうなのでトリのマーク「ゆるやかな家、虹が流れる」について感想を書く。場所から喚起されるイメージを膨らませていくというこの集団の作劇法から言えば、私の個人的好みからすればスズナリでの公演は劇場以外の空間で公演に比べるとイメージの自由な広がりに欠けるきらいがあるし、今回の公演ではこのところ主要な役柄を演じて看板になるつつあった嶋守千広が出演しない(受け付けでは見かけたけれど残念ながら当分、舞台には出ないらしい)ということもあって、見に行く前には若干の危ぐもあったのだけど、芝居を実際に見てみればそうした不安はいつのまにか忘れてしまい、トリのマーク独特の世界を楽しむことができた。

 どこかの田舎町を訪ねてスケッチをする鉄道技師(山中正哉)とそこで出会う奇妙な人々を巡る物語。ここでは今回はうかつに近づくと逃げてしまい決して姿を見せることがないという町についてのことが語られるが、あたかも逃げ水のように近づくと消えてしまうイメージというのはトリのマークの芝居に繰り返し登場するモチーフである。逃げ水といったが、これは表題にも出てくるから「あたかも虹のように近づくと逃げてしまう」と言い換えた方がいいかもしれない。町=虹というのはどちらかというと自由連想のようなゆるやかなイメージのつながりであって、ここで出てくる町というのがそのまま虹のメタファーとなるような構造上の照応関係があるわけではないけれど、その気になって読み取ろうとすればこの物語は虹と光についてのイメージに彩られた作品として読み取れないこともない。目を「カメラ」にして目に見える情景を写し取る少女(柳澤明子)、「目の前にあるものしか描かない」と語る鉄道技師。移動する町(太陽の移動による影の移動、あるいは砂漠の逃げ水や蜃気楼)、虹の出るところに人が集まり、そこに市(虹市)が出来て、そこに町ができるということ。世界は粉で出来ていると語る少女(光の粒子説)、対象に影響を与えることなしに観測することはできないというハイゼンベルグの不確定性原理……といった具合である。もちろん、これは芝居を見た時に私の脳裏にぼんやりと浮んだイメージのつらなりを文字にしてみただけのことで、作品を作った山中がこういうイメージで舞台を作ったとは思わないけれど、こういう自由な読み取りを許容するところが、私にとってトリのマークの芝居が面白いところなのだ。

  スズナリという劇場空間を使いこなすという意味ではセットや照明が変わったことで印象は同じではないけれど、通常客席として使用されている階段状の空間を丘のような土地に見立ててという使い方が前回同様だったのは少し不満ではあった。が、これは客席数と役者の出はけのスペースの確保の問題もあり仕方がなかったのかもしれない。これは次回以降の期待に。ただ、今回思ったのはそれが劇場であれ、ギャラリーであれ、その場所の特性によって、単に芝居のテーマが変わるだけでなく、芝居のスタイルも微妙に変わってくるのだなということで、劇場の大空間を完全に劇場の見立てで使う次回の東京グローブ座の公演をはじめ、今年も予定されている書店での公演など公演場所の性格によって、芝居のスタイル自体がその時、その時で変わってくるという可能性を秘めているのではないかと思った。

  

 2月4日 インターネット検索エンジンによるネット上の有名人ランキング(笑い)の続きです。これまでのところ思いついた人をどんどん入れていって調べた結果、ベスト10は今のところ、1位宇多田ヒカル34724、2位広末涼子31459、3位坂本龍一27789、4位椎名林檎25522、5位鈴木あみ 21869、6位浜崎あゆみ20836、7位椎名へきる20443、同7位安室奈美恵20443、9位手塚治虫19807、10位松田聖子17113でした。上位はカウントダウンTVの上位ランキングのような結果で、女性シンガーが強いのですが、特筆すべきは手塚治虫が2万まで少しのところまで来て、上位に食い込んでいること。これは宮崎駿の15267を完全に上回っていて、さすが手塚という感じなのである。その他各ジャンルで代表的な人物を挙げると俳優(男優)では今のところ金城武が13497でトップ、映画監督では北野武が15333、ビートたけしでは14514、劇作家では井上ひさしが5047でいまのところ断トツなのだが、5000台というのは作家としては少なくもないが、それほど多くもないといったところ。ベスト10では椎名へきるの7位というのが一般的知名度に比較して目だっているが、これは林原めぐみ16633、國府田マリ子8613とネット上では声優がけっこう強いため(ちなみに奥菜恵 7481、田中麗奈7457、松嶋奈々子5784だからネット上での声優の強さが際立ってるのが分かると思う)で、私はこのジャンルの人に詳しくないのでひょっとしたらもっと人気のある人はいるのかも。カウントは忘れたけど宮村優子はもうやってます。林原よりはちょっと少なかったはず。

 さて、演劇に話を戻すとテレビ、映画にあまりからんでいない演劇人で、野田秀樹2778、蜷川幸雄1363のネット知名度の高さはかなりのもので、えんげきのページの昨年のベストでこのあたりがトップを争ってるのは当然といったところであろう。ちなみに意外と有名な人として驚いたのが大杉漣の健闘(4548)、この数字だけではよく分からないと思うが、江口洋介4747、佐野史朗4208、岸辺一徳3678から言えばこんなに有名な人だったのかという感じである。もちろん、俳優としてはいい役者さんで北野武作品にも出演してるから、このくらいのカウントあってもおかしくないのだけれど、しぶいバイプレイヤーのイメージが強かったので、ちょっと意外であった。

 さて、私自身がどこの検索エンジンでやっているかはそこが混雑してしまう可能性があるのでしばらくは明かさないけど、文字を全部順番に拾うロボット検索であればどこでやっても傾向としては同じような傾向が出ると思うので自分でやってみた人がいて、もし上位10人に入りそうな人を発見したら、メールないしは伝言板の書き込みで教えてほしい。カウントの多そうな演劇人(劇作家)も募集中です。関連ページとリンクを結べばアクセスカウントが増えるかもしれない(笑い)。 

 2月3日 演劇というのはマイナーなジャンルであるというのはよく言われることだが実際のところどの程度にマイナーなのだろうか。実はこのことについて、インターネットの検索エンジンを使ってある実験をはじめている。実はこれは私が思い付いたことではなくて、大学時代からの私の友人が始めて、それを聞いて自分でもやってみたところなのだが、そこからすでにいくつかの事実が判明しつつある。方法は簡単であるロボット検索エンジンで、次から次に名前を入れて、その名前にひっかかってくるページ数のカウントを比較してみるのである。結果の1例を挙げて見ると

 平田オリザ841、岩松了978、西田シャトナー378、後藤ひろひと510、横内謙介430、成井豊482、松尾スズキ947、坂手洋二215、永井愛209、宮城聰162、上海太郎296宮沢章夫874、野田秀樹2778、唐十郎1315、蜷川幸雄1363、鈴木忠志341。ここで、判明したのは有名人を表現するのに「劇作家レベル」の有名人なる概念がどうやら存在しそうだということである。詳しい研究結果についてはいずれ後ほど紹介することにしたいが、ちなみに有名人のレベルには「女性アイドル」「男性アイドル」「作家」「映画関係」「声優」などのカテゴリーも存在しているようなのである。ちなみにこれまで試した中で一番「有名度」の高いのは女性アイドルで宇多田ヒカル34724、広末涼子31459、深田恭子12890、松たか子11737、奥菜恵7481といった具合である。ちなみにこれまで試みた中で宇多田ヒカルが断トツの1位で3万を超えるのは宇多田、広末の2人しか発見できていない。

 もう少し実験結果がたまったら、こうしたことについて考察をして発表したいとは思っているのだが、これには他にもいろんな遊び方があって、シティーボーイズの3人を比較してみると、きたろう4798、大竹まこと1462、斉木しげる681となって、劇作家レベル有名人である斉木はさておき、テレビで見かける頻度ではそれほど差がないきたろうと大竹に少なくともネット上では大きな知名度の差があるのかもしれないというのが分かってきたりする。ちなみに現在分かっている範囲で劇作家の中でもっとも多いのは井上ひさし5047であるが、これは調べてみると「作家」レベルに入るのである。しかし、これはやりはじめるとはまるよ。本当に。

 2月2日 東京タンバリン「盆と正月」について。東京タンバリンという劇団(?)は以前にこまばアゴラ劇場で一度見たことがあって(おそらく、アンケートの上演リストからいくと「おてんきあめ」(97年)という作品)、その時には青年団のようなことをやろうとしているのだろうけどいまひとつピンとこないなという印象を持っていた。それ以後、なかなか巡り合わせが悪くてしばらき見る機会がなく、今回ひさびさに見てみるといろんな意味でレベルが上がっていたのでびっくりした。また、ひとつ、今後の展開に要注意の劇団が現れたという感じである。

 東京タンバリンで作演出を担当している高井浩子が青年団に以前、所属していたことや青年団の俳優である永井秀樹がからんでいることでもう少し平田の影響が濃いのではないかと思っていたのだが、舞台から受ける印象は必ずしもそうではない。もちろん、群像会話劇のスタイルをとっているので大きく分ければ、似てないということはないのだだが、なにかに似ているというのなら、この作品を見て連想したのは東京乾電池時代に岩松了が書いていた戯曲である。舞台設定もある家の応接間というかなり私的な空間であって平田が最近使うような研究室とか美術館のロビーといったような公的な性格の強い空間ではない。

 まず感じたのはキャスティングの妙である。東京タンバリンがいわゆる劇団の形態を取っているのかどうかは分からないのだが、出演者の今後の予定を見るかぎりはかなりいろんなところからピックアップしたメンバーをうまく組みあわせ、17人とかなり大勢の出演者が出ている。これだけ大勢の出演者を登場させればそれぞれの印象は散漫になりがちだが、それぞれの俳優の個性をうまくひき出してアンサンブルを成立させていることに高井浩子の演出力がなかなかのものであることをうかがわせた。

 個性派ぞろいのキャストの中でも特に光っていたのがこの家に出入りするいくつかのグループの結節点とでもいえる可奈子の役を演じたベターポーズの阿部光代の存在である。彼女は前の主人を亡くし、再婚してこの太平家に入ってきて、その家に職場を持つ夫の姉と同居している。両親の離婚で別れて暮らしていた妹や夫の姉との微妙な関係が芝居の進行につれて、浮かび上がってきて、それがこの芝居においてはひとつのメインストリームとなる。それだけにともすれば暗くシリアスになってしまいそうな役どころをそうはさせないで、絶妙なバランスで引っ張っていくのは彼女のとぼけた個性あらばこそであろう。この阿部に加え、可奈子にひそかに思いをよせるカメラマンの薫(瓜生和成)、傍若無人だがどこか憎めない嵐田(井上幸太郎)といったわき役陣がこの芝居においてはなかなか魅力的であった。

 群像会話劇の若手劇団としては相当のレベルに達しているとは思うが、この芝居を見る限りは難を言えば、「いい芝居」を超える、「ここだけのもの」に欠ける印象もあることも確か。目指すものがなになのかまだはっきり見えてこないきらいもある。もっとも、それについてはもう少しこの劇団を継続して見てみないとなんともいえない。

 さしあたり、次回公演では動物電気の辻脩人や猫のホテルの市川しんぺーら今回を上回る個性派が客演することもあって、こうした猛者たちを高井浩子がどうさばくのかが気になるところ。台詞の中で「東京のカサノバ」というのがでてきたところがあったが、悪口ではなく、いい意味である種の少女漫画と共通の感性を感じさせるところがあって、そういう表現はおそらく男性の劇作家には難しい。ともすればステレオタイプになりがちな設定を紙一重でそうはさせない微妙なさじ加減もこの舞台からは感じられた。今はまだはっきりとは言葉で表現できないが、おそらく、この辺りのところにこの集団の特徴はあるのではないかという気がした。 

 2月1日 「ルグリ、ルディエールと輝ける仲間たち(III)」はパリオペラ座のダンサーであるマニュエル・ルグリが企画したプロデュース公演で、今回は楽しみにしていたのだけど、残念ながら急用ができて、後半しか見られなかった。そういうわけでここでは詳しいレビューを書くことはあきらめて、私が見ることができた部分だけの簡単な感想を書くことにする。

 見ることができたのは第2部の最後の演目である「ライモンダ」より第2幕のパ・ド・シスと第3部の「ロメオとジュリエット」第1幕、第3幕、「ドン・キホーテ」第1幕、第3幕である。いずれも有名な古典作品ではあるが、今回の公演には「ヌレエフを讚えて」の副題がついているように、80年代にパリ・オペラ座の芸術監督を務めた偉大なダンサーに敬意を表して、いずれも通常に上演されるものとは異なるヌレエフ版を上演した。しかも、通常のガラ公演ではパ・ド・ドゥなどだけが踊られることが多いのにそうはしてない。特に第3幕で上演された2演目についてはピアノの生演奏による前奏部分を付け加えるなどして、単なる全幕バレエからの抜粋に終わらせずにルグリ自身が構成して、ヌレエフの原典の薫りを少しでも伝えようと努力していたことには感心させられた。

 「ロメオとジュリエット」「ドン・キホーテ」ともに第1幕をオペラ座の若手のダンサーが踊った後、3幕をルグリとモニク・ルディエールが踊るという構成で、若いダンサーに旬の生きのよさとルグリ、ルディエールの成熟した至芸とでもいえるバレエが両方楽しめる趣向で、それこそひとつぶで2度美味しいといった感じである。

 「ロメオとジュリエット」では第1幕はデルフィーヌ・ムッサンのジュリエット、ヤン・サイズのロメオ、マーキュショーにリオネル・ドラノエ。ここはジュリエットが仮面舞踏会でロメオに会いお互いに相手を見初めるといういわゆる「見初めの場」である。(性格になんとよばれているのかはパンフが売りきれていたので不明)ムッサンというダンサーはコレまで名前はなんとなく聞いたことがあっても、あまり注目したことがなく、不勉強だったのだが、ここでは実に初々しく恋する乙女を演じて印象的。ヌレエフ版の振付は複雑なステップの連続で構成されていて、それをいとも簡単にこなしていく技術の確かさもあるが、ジュリエットのような役を演じさせた時のこのダンサーの可憐さにはすっかり、魅入られてしまった。

 一方、「ドン・キホーテ」の第1幕ではキトリをレティシアプジョル、バジリオをバンジャマン・ベッシュ。いずれも初めて名前を耳にしたダンサーだったのだが、ブジョルのいかにも小生意気な若い娘といった感じでコケティッシュなところのあるキトリも魅力たっぷりであった。ここからは完全に蛇足だが、この小生意気さどこかで見たことがある。だれかに似ていると思って考えていたのだが、カーテンコールにもう一度、ブジョルが出てきた時やっと気が付いた。この子、テニスのマルチナ・ヒンギスに感じがそっくりなのだ。容姿がそれほど似ているわけではないとは思うのだけど、どことなく感じが……。

 「ドンキ」の1幕にはわき役として東京バレエ団のダンサーも参加。ヌレエフ版ではこうしたわき役たちにも群舞以外のところではわきに控えていればいいというのではなくて、いろいろ細かい演技が要求されているのだが、おそらく経験は少ないと思われるヌレエフ版を実に楽しそうに演じていて雰囲気を盛り上げていたことにも好感も持った。

 ルディエールとルグリについてはやはりこういうパ・ド・ドゥを見てしまうと陳腐なようだが素晴らしいとしかいいようがない。おそらく、テクニックだけでいえばさすがに若かったことを比べれば落ちていることは否めないのだろうが、特に「ロメオとジュリエット」の「寝室の場」のようなパ・ド・ドゥを踊らせればその叙情性というか、ロミオを見送った時のジュリエットの残心などちょっとやそっとの若手ダンサーに出せる域ではない。「ロミオ〜」という演目自体についていえば当然、キャスト的にはムッサンの方がはまっているわけだが、それでもこういう役柄を演じて、少しも不自然さがないのはまさに至芸としかいいようがない。こういうのを見せられると前半上演された「アザー・ダンス」が見たかったなあと思うのだが、これは言ってもせん無いこと。「ロメオ〜」「ドンキ」を見られただけでも十分に元を取れたと思わせる舞台だったのである。

 1月30日 「ルグリ、ルディエールと輝ける仲間たち(III)」、東京タンバリン「盆と正月」を観劇。芝居がはねた後、タイニイアリスに行きタイニイアリスの丹羽氏、ディー・プラッツの真壁氏、プロトシアターの大橋氏、ストアハウスの木村氏らによる最近の演劇状況と小劇場をテーマとする座談会に参加する。

 1月29日 名古屋の愛知県芸術文化センター小ホールで、コンテンポラリーダンスシリーズ3「ボーダレス時代の個性たち」を観劇。その後、東京に戻って、「ロード・オブ・ダンス」を観劇。

 コンテンポラリーダンスシリーズ3「ボーダレス時代の個性たち」は愛知芸術文化センターの自主企画公演で、伊藤キム、大島早紀子、山崎広太、笠井叡の4人の振付家の作品を一度に見られるという東京でもちょっと得がたい機会ということで、名古屋まで出掛けて見ることにした。上演されたのは以下の4作品。

 伊藤キム+輝く未来「生きたまま死んでいる人は死んだまま生きているのか?」
 大島早紀子+平山素子「死の舞踏」
 山崎広太+井神さゆり「Oblique line」
 笠井叡+笠井端丈「Ymir(イーミル)」

 フルオーケストラによるH・アール・カオスの「春の祭典」などを上演した話を以前に聞いて、その時から気になってはいたのだが、今回の公演はこの劇場のダンスに関する熱意を感じさせる意欲的なラインナップで、地方の劇場にこういうところがでてきているのは頼もしく思った。

 個々」の作品内容については後で別途書き込みことにしたいがなんといっても最大の収穫は大島早紀子の振付でH・アール・カオスでも活躍するダンサー平山素子のソロ作品「死の舞踏」を見られたこと。平山が99年第3回バレエ&モダンダンス・コンクールに参加し、金賞とニジンスキー賞をダブル受賞した作品の再演だが、この作品は東京ではまだ上演されたことはなく、今回がコンクール以来初めての上演となった。上演時間8分程度の小品ながら、大島の振付・構成、それを具現化した平山のパフォーマンスともにドラマティックでスケールの大きさを感じさせるもので、例えばこれがそのまま世界バレエフェスで上演されたとしても見劣りしないと思われるほど完成度の高い作品であった。一方、仰天させられたのは笠井叡+笠井端丈「Ymir(イーミル)」。元気ジジイ(失礼)のはじけぶりにはいったいなんなんだこの人はと唖然とさせられた。この2作品と出会えただけでも名古屋までわざわざ行った甲斐はあったと思ったのである。