ももクロ&アイドル blog (by中西理)

ももいろクローバーZとアイドルを考えるブログ

維新派「キートン」(大阪南港ふれあい港館駐車場内野外特設舞台)

 維新派*1キートン」(大阪南港ふれあい港館駐車場内野外特設舞台)を観劇。
 維新派キートン」を初めて観劇。当初見るはずだった初日には東京、大阪の知人がけっこう沢山来ているはずで、観劇後も屋台で盛り上がろうと楽しみにしていたのだが、この日まで初観劇が延びてしまったので観劇前にやや拍子抜けの感あり。しかも、この日は運悪く周囲の客席に観劇中に隣りの人と大声で話をする人や役者の親戚なのか、役者が登場するたびに指差して、○○ちゃんどこ、あそこかなどと叫ぶ人あり、急に帰ってしまう人あり、こういう舞台が見慣れなくて飽きてしまったのか、場内・場外を行ったり来たりする人ありと最悪の観劇環境で前半は集中力が必要な芝居なのにどうも集中するのが難しく、厳しい状態での観劇となってしまった。この舞台は少なくとも後2回見る予定(19日、24日)なので舞台についての詳しい感想はその時に書くことにしたいが、そういう特殊事情もあったせいもあって舞台に没入するのが難しかった。
 これから述べるのはあくまでそういう状況下での印象なので、今後の観劇で印象が変化する可能性もあるが、ひとつ言えるのは維新派は以前のような祝祭的な演劇ではなくなり、よりアートよりのディレクションへと大きく舵を切ったということが新国立劇場の「nocturne」をへてこの公演を見てみていよいよ明確になってきたことが分かった。
 昨年の「nocturne」の時のレビュー*2に「野外・室内の問題じゃないと書いたのは音楽も身体表現も以前と比べるときめ細かさが要求され、その分完成度は上がっているが、それは同時に本来あったある種の単純明快なダイナミズムを奪うことにもなっているのではとの危ぐも抱いたからだ。野外ならそれは両立可能なのか。それとも、ここからはじまった変容は維新派の舞台をこれまでのヂャンヂャンオペラよりアート性の高い次の新たなスタイルに変えつつあるのか。それが気に掛かる舞台だった。」と書いたのだが、今回の「キートン」は野外劇ではあってもお囃子・下座音楽としてのヂャンヂャンオペラというような要素は非常に希薄で、キートン=サイレントという主題のせいはあるとはいえ、特に前半部分などは映画や美術作品のレファランス的引用(サンプリング)というような美術的な要素への傾注が全体を支配していて、内橋和久の音楽も背景に退いている感が強い。
 これはひとつには舞台美術に今回、黒田武志が参加していて、そのテイストによるところももちろんあるのではあろうが、その以上に今回黒田に美術を委嘱することになったということも含めて、ストーリーテラー、劇作家という側面よりも元々、大阪教育大学で美術を専攻していた松本雄吉の美術家*3としての側面が色濃く出てきている舞台になってきているということにその原因はあるのではないかと思われたのである。
 もちろん、維新派の舞台は普通に演劇でいう脚本とされる会話のようなものは限られていて、単語を羅列したようなテキストを音楽のリズムに合わせて群唱するいわゆるヂャンヂャンオペラの形式を主体として、最近の作品ではそこにいくつかの台詞が挿入されていくような形式を取ってきたのであるが、サイレント映画喜劇王キートンを主人公としたこの舞台ではそういう台詞もほとんどなく、すべてが身体の動きと美術も含めたビジュアルプレゼンテーションの連鎖により進行していく。そして、「キートン」にふさわしく、冒頭の映画館の場面から映画やキートンをイメージさせる場面や実際のキートンの映画からの引用による場面などが展開されていくが、この舞台ではさらにそれに加えて、ビジュアル版の入れ子構造のようにシュルレアリスム絵画(デ・キリコ*4ルネ・マグリット)を思わせる場面や構図がそこここに引用されるばかりか、パフォーマーが途中で背中に背負って登場する便器*5のようにマルセル・デュシャン*6から引用さえ散見される。
 これは映画「イノセンス」で押井守ベルメール球体関節人形を登場させたことなどをちょっと思い出させる手法であり、この「キートン」にはもちろんベルメールが登場するわけではないけれど*7、ここで引用されるのがいずれもシュルレアリスムの作家であるということはそこになにか意味付けを見つけたいという気持ちにさせられることも確かなのである。
 もっとも、私は残念ながら美術にもサイレント映画にも門外漢なのでこのあたりについては詳しい人のサジェスションを待ちたいところであるし、今回の観劇では前半部分で見逃しているものが沢山ありそうなので、次回の観劇の後このことについてはもう一度考えてみたいと思っている。
 
 

http://www.pan-kyoto.com/data/review/41-04.html

*1:先日のダンス批評のシンポジウムで維新派のような存在を分析するにはジャンルクロスオーバーした批評が必要と発言した。私の能力にはあまることだが、今回の公演では美術・演劇・音楽・ダンスとさまざまな切り口からこの舞台への接近を試みてみることにしたい

*2:「nocturne」http://www.pan-kyoto.com/data/review/47-04.html

*3:維新派結成前に美術を専攻する学生として具体美術協会の周辺や当時存在していたPLAYという美術集団にも出入りしていたらしい

*4:デ・キリコは正確に言えばシュルレアリスム絵画ではなく「形而上学絵画」と称されているが、その作風はシュルレアリストに強い影響を与えた

*5:「泉」http://www.beatmuseum.org/duchamp/images/m-fountain.jpg

*6:キートンが花嫁に追いかけられる場面はもちろん映画「セブン・チャンス」からの引用ではあるのだけれど、もしかしらと思って確認してみると「大ガラス」とも関係あるらしい。後、車輪で遊ぶシーンもそうだというのだが、判じ物じゃあるまいし、そんなこと分かるか(笑い)

*7:キートン人形というのが登場するので強引にそこになにか意味を見つけたいという欲望にかられるがここからなにか結論を導き出すのはやはり牽強付会のそしりを免れ得ないだろう