別役実「ベケットと『いじめ』」(白水社)
プロローグ ドラマツルギーの変容(方法論の演劇
関係が主役)
1 「いじめ」のドラマツルギー(閉鎖された場
無記名性の悪意
関係の中の「孤」 ほか)
2 ベケットの戦術(関係の迷路
言葉ともの
メタ・コミュニケーションの装置 ほか)
エピローグ 局部的リアリズム
中野富士見中学でのいじめ事件(鹿川君事件)とベケットの不条理劇(「行ったり来たり」「息」「わたしじゃない」)の構造分析から、演劇と現在的な「個」と「集団」の関係性の問題について論じている。別役実の慧眼に驚かされるのはこの著作が最初に出版されたのが、87年だということだ。演劇理論の入門書として考えるともはや現代の古典といってもいい著作だと思うが、うかつなことにこれが初読であった。
ここでは鹿川君の自殺事件として知られることになる中野富士見中のいじめ事件についての分析を通じて、現代の社会的集団における「関係性」のありようが、西洋近代演劇が前提としてきた「内面を持つ独立した個人」=「個」から関係性の結節点としての「孤」に変容しており、それを前提として登場したのがベケットの不条理劇だという主張がなされるのだが、この論点はいま読んでみると明らかにその後90年代半ばに日本現代演劇において登場する「関係性の演劇」を予見した予言の書と読み取ることさえできる。
実は本書の存在は知らなかったためにどちらかというと当時の「静かな演劇=リアリズム演劇」論への反論のための概念化として、まったく別の論点からの着想で、以前、日本現代演劇を貫くひとつの水脈としてベケット−別役実−平田オリザ(=関係性の演劇)との系譜づけを行ったことがあったのだが、本書での別役の論点には問題意識として当時私が考えていたことと、ほぼ完全に重なり合うところがあって、それだけに当時この本の存在を知らなかった*1のは悔やんでも悔やみきれないことであった。
もっとも、やはり87年という出版時期を思わせるところは随所にあって、これは私の個人的な感想ともなるが、ひとつは本書のなかに頻出するドラマツルギーという言葉がどうもなじめない*2ということ。最近、あまりこの言葉を使う人は少ないんじゃないかと思うのだが、どうだろうか*3。もう、ひとつはベケットの分析はあるけれど、この時点では存在しないか、まだ表面下に隠れていたので、「関係性の演劇」の分析にはこの理論立ては使われていないということである。せめて、自作を取り上げて、ベケット論同様の分析をしてくれていたらとないものねだりをしてしまうのだが、それは他人である批評家の仕事で自分でするものじゃないんだろうな、とも思う。仕方ないだろう。
実は扱われている事件自体が20年近く前のものであるから、その時点で当然気がつくべきであったのだが、最初はもう少し最近書かれたものだと誤解して読んでいたためにこの本のなかでの現代の日本の演劇状況への言及というか「ぼやき」について若干、ピンとこないところもあったのだが、80年代という出版時期が分かった時点で「80年代演劇批判」だったのね、というのが分かって、このぼやきの向けられている対象も想像はされて、思わずにやにや笑いが浮かんでしまった。