維新派「ナツノトビラ」(2回目)
維新派「ナツノトビラ」(梅田芸術劇場)を観劇*1。
作風としては新国立劇場の「nocturne」、大阪南港野外の「キートン」、そして今回の「ナツノトビラ」と見てみるとそれまでの祝祭的な空間から場面、場面での構図の精密な構成を意識した完成度の高いアートパフォーマンスへの方向性は大きな流れとしてあるのが間違いないと1回目の観劇の後でのレビューで書いたのだが、その後以前に書いた新国立劇場の「nocturne」のレビュー*2を読み返してみて我ながらびっくりした。
ここでは「祝祭としての維新派」に未練を残しながら、危ぐという形で書いていたことが見事なまでにこの「ナツノトビラ」を予言している感があったからだ。「変拍子の大阪弁の群唱による従来の『ヂャンヂャンオペラ』に加えて、『歩く』ことを主題にして交響楽的に展開する、『動きのオペラ』の多用とも関係していて、維新派がよりダンスシアターに近い新たなスタイルへと変容しつつある」とこの時に書いたが、それはこの「ナツノトビラ」においては変容しつつあるどころではなく、その新たな姿を明確に現している。
「nocturne」のレビューでは「危ぐとして書いていた」と書いたのは今は危ぐではない、というのがその言葉の裏にあった。というのは今回の公演を見た感想として、ネット上で散見された感想として、「野外じゃないから」あるいは「やはり野外で見たい」というのが数多くあったのだが、劇場での2作品だけではなく、その間に上演された「キートン」までの一連の流れを見てきて思うのはこれはこれまでのなかでの必然的な流れではないか、と思わせるところがあるからだ。
維新派の上演史を俯瞰してみた時に現在の方向性への転換点は「流星」(2000年)にあったのではないかと思う。
今回の「ナツノトビラ」をそれまでの作品と比較して見た時にイメージということから言うと、一番共通点を感じたのはこの「流星」である。それは例えばイメージとして「墓場のようにも、ビルのようにも見えるキューブを主体とする美術」「物語の終盤に登場する月(「流星」では飛行船or太陽)」に類似のイメージを感じたということもあるのだが、もうひとつ大きかったのは物語からの離脱(身体表現への強い志向性)かもしれない。
というのはジャンジャン☆オペラ「南風」(1997年)は中上健治が原作だったということもあり、維新派においてはもっとも物語性が強く、パフォーマンスというよりは演劇性の強い作品であった。そして、それが生バンドの演奏を入れての祝祭劇としての維新派のひとつの到達点を示していた。その後の「水街」(1998年)はまだその流れを受け継ぐ作品ではあったが、「流星」は明らかに方向性が違っていて、その時点ではまだそれがどういうことなのかがはっきりしなかったのが 大阪以外の土地を漂流した「さかしま」「カンカラ」の2作品をはさんで、「nocturne」「キートン」「ナツノトビラ」と並べてみた時に逆にその重要性がクロースアップされてくると思われるからだ。
維新派ホームページによれば2000年〜2001年に上演された維新派の転機となる作品、「流星」では、すべての動きが細かく指示された脚本をもとに、パフォーマーが稽古場で振り付けを作り上げていくスタイルが試みられ、このスタイルはその後も続いていくことになる。「踊らない踊り」とは、既存のダンスの枠におさまらず、日本人/私たちの身体性を生かした新しい身体表現を確立していこうという維新派の意志でもある、とある。初日を見ての感想で「コンテンポラリーダンスとしての維新派」などということを唐突に考えたい気持ちにかられたのはこの「踊らない踊り」というの松本雄吉自身が「だからダンスではない」と位置づけているとしても、ここで述べられていることはコンテンポラリーダンスの問題意識そのものといってもいいほど、その問題群を共有しているからだ。さらに国際交流基金サイトのインタビュー*3で松本は「まず、「体」のことを考える。“不自然な動き”とか、思いどおりに動かない不自然、不自由な動きを徹底してやった」などと今回の「ナツノトビラ」での身体表現についてこたえているのだが、これなどは桜井圭介氏による「コドモ身体」とほとんど重なる問題意識なのではないかとさえ思われるのである。
さらに言えば、「踊らない」ということにおいて以前のように無手勝流に立ち向かうわけではなくて、最近の維新派の舞台を見ていればそこには既存のダンステクニックとは違う身体語彙が意識的に獲得されるための継続的な訓練や試行錯誤が日常的に行われていることが分かる。
例えば今回の作品では音楽に合わせて、数歩すばやく歩いた後、そこで突然ぴたっと静止するということを大勢のパフォーマーが同時にやる場面がでてくるのだが、これなども普通のダンスにはない身体負荷であり、日常的な身体訓練がなされていないとこれだけ大勢がシンクロして群舞的にそれを行うことは簡単なことではない、と思われる。
タップダンスのようにステップで音を出す場面も足の裏に空き缶のようなものをつけてやる場面をはじめ複数でてくるが、全員が同時に踏むというだけでなく、楽器の演奏のようにパートに分かれていたりするわけで、タップダンスやアイリッシュダンスのように超絶技巧のものではないにしても、内橋の変拍子の音楽に合わせてそれを正確に行うのは相当以上のリズム感覚が要求される。
しかも、最近の維新派の場合は時には身体のリズムといわゆるジャンジャン☆オペラ的な台詞の群唱の生み出すリズムがそれぞれ拍子が異なるというようなことも要求されたりするわけだから、松本がいくら日常的身体を持つパフォーマーがといっても、それだけじゃおっつかないのは間違いないところだ。
もっとも、維新派の場合そういう技術を例えば「リバーダンス」や「TAP DOGS」のように大向こう受けするショーとして見せるということはなくて、それはそれぞれのシーンであくまで流れのなかでそれに奉仕するような形でしか使わない。そして、そこには松本のストイシズムの美学があるのだと思うのである。
実は今回の公演ではアンコールとして祝祭性の原点にあったといってもいい作品「少年街」から「路地裏の蒸気機関車」の場面が上演された。ここでは分かりやすい形で技術が表現されたこともあり、極端なことを言えば「ここの方が本編よりよかった」という声まであるようなのだが、この部分は昔作られたこともあっておそらく技術的には本編で行われたことほど難しくはないのである。だから、「こういうのがいい。こういうのをやってほしい」という人がいたとしても、私はそれだけでは方法論的後退でしかないとも思ってしまう。それは結局ノスタルジーでしかない。私が見届けたいのは現在進行形のこの方法論的実験の行き着く先なのだ。
コンテンポラリーダンスのひとつの価値判断基準がその集団のみが持つ身体語彙の種類の豊富さと特異性ということにあると考えると豊富さという点では「まだこれから」の部分があるにしても、特異性ということでいえばすでにフォーサイス、勅使川原三郎、マッツ・エックら私がコンテンポラリーダンスのトップレベルのアーティストと考える人と比べてもすでに拮抗したレベルにあると思えるのだが、どうだろうか。
もっとも、そんな私も例えばなんかぐにゃぐにゃ踊ってるフォーサイスの最近の作品とかを見ていると「昔のようなピシッとのが見たい」などと我侭な注文を出したくなるんで、人のことは言えないのだけれど(笑い)。