黒田育世「矢印と鎖」@青山円形劇場
黒田育世「矢印と鎖」
9月30日〜10月2日出演:大迫英明、烏山茜、菊沢将憲(空間再生事業GAIA)、西田弥生(BATIK)、黒田育世(BATIK)
会場:青山円形劇場
福岡のイムズホールで5月に初演された作品の再演。実際の作品を見るまで誤解していたことがいくつかあった。ひとつはこれは黒田育世の作品ではあるが、BATIKの公演ではなくて、BATIKからは黒田のほか西田弥生も出演してはいるが、残りの3人の出演者は福岡在住の俳優であるということだ。そのためもあってかこの作品はこれまでの黒田作品とはかなり趣きの異なる作品となった。
これまでの黒田作品、ソロを除いたBATIKの作品ではトヨタアワードを受賞した出世作「SIDE B」をはじめとして、ユニゾンによる力感あふれる群舞が最大の特徴かつ魅力で、群舞と黒田の踊るソロの対比によって作品は構成されてきた。しかし、この作品にはそういう場面はほとんどない。群舞がないだけではなく、パフォーマーにはそれぞれセリフが与えられている。さらにはセリフのもとになったそれぞれの「記憶に残った過去の出来事」「当時の将来の夢」といった質問に対する答えを出演者自身が答えている映像も組み合わされてその全体をコラージュすることで構成されている。ダンスというよりは演劇ないしパフォーマンスの色合いが強い。そういう意味で黒田としては異色の作品であった。
黒田自身がウェブサイトのインタビュー*1に「名前を呼ぶとか叫ぶとかはあるけど、意味を持った言葉としての台詞は初めてです。それと、ダンス作品を目指してないということです。できあがったものがダンスであるかどうかは、重要なことではない。この作品が何に属するか、舞踊か、演劇か、パフォーマンスか、映像か、自分でもわからないし、わかる必要もない」と答えているので、この作品について「ダンスではない」と批判したりするのは無意味である。けれども、この作品が黒田のほかの作品と比較した際にその分だけダンスとしての妙味に欠けることも確かだ。だからと言ってそれに代わるほかの魅力があるのかというとそれは微妙。やはりこの作品の最大の魅力はセリフを発する俳優の横でそのセリフに触発されるように踊っている黒田のダンスにほかならない。
上記の同じインタビューのなかに「踊るという行為を私から奪い取ることはできない、私は踊るんだ!と強く思っていましたが『全部同じだ』とあるときふと思ったんです」という部分があるのだが、いまさらピナ・バウシュに倣うのではあるまいしこれはいったいどういうことなのだと当惑させられたのだ。
というのは踊ることへの懐疑がコンテンポラリーダンスにおいて常に善であるとされるような昨今の日本のダンス情況のなかで、ダンサー・オブ・ザ・ダンサーであることにこだわることに黒田の強みはあると考えていた。それだけに「これはどういうことだ」と考えてしまったのだ。
実はこういう構成の舞台は最近どこかで見たことがあるという既視感があり、少し考えてみるとそれは京都アトリエ劇研で上演されたFrance_pan「点在する私」という作品だった。この2つの作品はいずれも出演者についてのドキュメンタリーで、出演者にプライベートに関する質問をして、その答えから作品を組み立てていくという基本的構造がほとんど同じだからだ。もちろん、こういう方法は珍しいものではないので、どちらかがどちらかを模倣したということはなく、偶然だろうと思う。むしろ、重要なのは、にもかかわらず舞台の印象は大きく異なるということだ。レビュー*2で書いたようにFrance_pan作品は1時間40分を集中して見続けているのがかなり困難であったのに対し、黒田作品ではそれなりに面白く見られたことだ。
それではこの作品はどこが面白かったのか。それどれ特定の個人の体験に基づいているから、France_panの作品と黒田作品では作品のなかに登場するエピソードのディティールは違う。とはいえ、2つを比較すると黒田作品には今は亡き母親がアル中であったことの告白など多少、どきっとさせられるような過去の秘密めいたエピソードははいっていたものの、作品の面白さの本質はそこにはない。おそらく、黒田が出演して踊っていなければこの作品も長時間面白く見続けられただろうかとの疑問を否定することは残念ながらを私には難しかった。
作品全体が全体として演劇であろうが、ダンスであろうが、この作品の面白さはまぎれもなく黒田自身が踊るダンスのなかにある。そのダンスはほかの俳優のセリフや演技に喚起されたものである、という意味では言語テクストや意味性とは間接的なつながりはある。しかし、出演者の過去のドキュメンタリー的再構成のなかにはやはりそれほどの面白さは感じることはできなかったからである。
吾妻橋ダンスクロッシングに向けての鼎談で、あるいはそれについて言及した私の吾妻橋ダンスクロッシングレビューへのコメント*3で桜井圭介氏が「最近のダンスより最近の演劇のほうがダンス的である」などと書いていたりしているが、これと黒田が演劇めいた作品をつくったこととはなにか関係があるのだろうか。それとも偶然の符合にすぎないのか。これは桜井氏自身がどうこうさせたということではもちろんなく、「私は踊るんだ!に拘る=コンサバ」という風に見る見方が東京で強まっていてそれが、黒田の変化になんらかの影響を与えたのかということなのだが。
実はこの公演の前後にニブロールの矢内原美邦がプリコグのサイトの出演者募集*4に
新しいダンス表現を真剣にダンスを目指す人達と模索し創りたい。 ニブロールを結成しダンス公演をしているつもりなのに、ダンスじゃないと言われ、ダンス作品をつくる、ダンス作品をつくるよと思っ て 04 年あたりからはかなり「ダンス作品」という言葉にふりまわされてきた、私ですがもう、やめました。ダンスの可能性なんて、もっといろいろあるでしょう。 だから、好きなように、好きな作品を今回は創らせてもらいたいと 相談したところ、いいよ♡とラブリーなことになり、普通にいわれるダンスといえるものになるか? というのは疑問ですが、しかし、それもダンスなのです。なので、役者、ダンサー問わず募集をして 新しい出会いをしてみようと思っております。
矢内原美邦
と「ダンス公演をしているつもりなのに、ダンスじゃないと言われ……普通にいわれるダンスといえるものになるか? というのは疑問ですが、しかし、それもダンスなのです」などと書いていることを発見。矢内原がこういう書き方をするということは東京で私が知らないうちになにかよからぬことが起こっているのかもしれないとの疑問を感じてしまったのだ。私は矢内原美邦の作品はダンス作品はダンスとして面白く刺激的、演劇作品は演劇として面白く刺激的と考えているのだが……。そうとは思いたくはないけれど矢内原が書いている「ダンス公演をしているつもりなのに、ダンスじゃないと言われ」はひょっとしてトヨタアワードでの落選のことなのだろうか……。私自身はたびたび書いているようにトヨタ最終選考会の選考基準は首尾一貫しているのであれはそれなりに根拠はあると思っているのだけれども、それで岡田利規や矢内原美邦らさえもが被害者意識(のようなもの)を感じているとすればトヨタ自身の問題というよりは1人以外は全員が敗者となるコンペの弊害としてちょっとまずいなと思うことも確かなのである。