蜷川幸雄演出「じゃじゃ馬馴らし」@シアタードラマシティ
【演出】蜷川幸雄
【作】W.シェイクスピア
【翻訳】松岡和子
【出演】
市川亀治郎/筧 利夫/山本裕典/月川悠貴
磯部 勉/原 康義/廣田高志/横田栄司/日野利彦/妹尾正文/大川ヒロキ/岡田 正/清家栄一/飯田邦博/新川将人/井面猛志/澤 魁士/田島優成/川口 覚(さいたまネクスト・シアター)/五味良介/宮田幸輝/石橋直人/荻野貴継
彩の国さいたま芸術劇場のシェイクスピアシリーズ22弾。実は今週末からニブロールの矢内原美邦も参加するシェイクスピア・コンペなどという企画も控えていてしばらくシェイクスピアに縁のある公演が続きそうなのだが、私の場合は大学時代にシェイクスピアに興味を持って戯曲を読んでいるだけではもの足りなくなり、シェイクスピアシアター「ロミオとジュリエット」とそとばこまち「夏の夜の夢」を見に出かけたのが、観劇をするようになったきっかけであったりする。
だから、シェイクスピアの作品は好きで好んで見ているということもあるし、特にエジンバラフェスティバルなどに出かけた時にはできるだけシェイクスピアの作品、それも日本ではあまり上演されないような演目を見ることができる時は積極的に見るように心がけていて、ひそかにシェイクスピア全作品完全制覇なども狙っているのだが、今回見た「じゃじゃ馬馴らし」という芝居これまでは舞台は見たことはなくてこれが初めてなのだった。こういうけっこう珍しい作品を蜷川幸雄が手掛けるというのは興味深いが確か「 彩の国さいたま芸術劇場のシェイクスピアシリーズ」は日本ではシェイクスピアシアターだけが成し遂げたという全作上演に挑戦しているのではないかと思ったのだが、今回舞台を見て舞台自体は面白く見させてもらったのだが、特に最近はこの作品があまり上演されない理由もなんとなく分かった気がした。
なぜそうなのかについて筋立てから説明しようと考えたのだが、これがそう簡単にはいかない。そこでまずこの公演の公式サイトからあらすじを引用してそれにしたがって説明していきたい。
あらすじ
舞台はイタリア。学問の都パドヴァに、キャタリーナとビアンカという姉妹がいた。このふたり、妹のビアンカが従順で美しいのに対し、姉のキャタリーナは鼻っ柱の強い“じゃじゃ馬”で、男などまるで眼中にない。
ある日、姉娘の行く末を心配した資産家の父バプティスタが、妹の求婚者たちに「姉の嫁ぎ先が決まるまで妹は誰とも結婚させない」と宣言しているところに、ピサの裕福な商人の息子ルーセンショーがやってくる。修学のためにこの地を訪れたルーセンショーだったが、彼もまたビアンカに心を奪われてしまい、学問などそっちのけで、一計を案じて召使のトラーニオに自分になりすますよう命じる。
折しも、ヴェローナからはペトルーチオという名の紳士がやってくる。妹娘の求婚者のひとり、ホーテンショーから事の成り行きを聞いたペトルーチオは、自分もまた結婚相手を探していること、しかも相手は金さえあれば誰でもよいことを告げ、強引にキャタリーナとの結婚話を進める。破天荒なペトルーチオに辟易するキャタリーナだったが、姉娘の貰い手をみつけたバプティスタは大いに喜び、話はとんとん拍子に進んでいく。果してキャタリーナとペトルーチオはうまくいくのか?そしてルーセンショーとビアンカの恋の行く末は……?
ひとつはこの芝居の中心となる主題が文字通り表題が「じゃじゃ馬馴らし」となっているようにはねっかえりの女性を従順な妻に仕立て上げようというもので、こういう主題は当時の演目のなかにはほかにもあったようだが、フェミニズムのようなものを持ち出すまでもなく現代に上演するにはちょっと女性蔑視的に思えるところがないこともなくて、ちょっと当惑させるところがあるからだ。
コメディなんだからそんなに目くじらたてなくてもいいじゃないかと言ってもやはり気になるので、そこが大きな問題なのだが、それを蜷川がどんな風に解消したかというとキャタリーナに歌舞伎役者である市川亀治郎を持ってくるというアイデアで、現代的なリアリズムで演じたらおかしくなるところをうまく誤魔化したともいえる。歌舞伎ならばこの程度の女性蔑視的な設定は珍しくないし、オールメールキャストというなかでもこのキャタリーナを亀治郎がところどころで歌舞伎流の口跡を取り入れたりすることで、設定の不自然さをある程度目立たなくすることに成功していた。
実際の舞台のどこが面白いのかというとやはりキャタリーナとペトルーチオのやりとりなのだが、これがほとんど速射砲のようにセリフをまくし立てる筧利夫と歌舞伎のさまざまなテクニック・技巧を凝らしてこの猛烈な女性を演じる市川亀治郎の役者対決というかほとんど個人技なのだ。これはたぶんほかの人がやってもこれほど面白くないだろうという意味ではキャスティングも含めた蜷川マジックといえるかもしれない。これは二人ともちょっとほかにないほどの当たり役で、特にこのいかにも俺様的なペトルーチオという男、筧利夫の個性と本当にぴったりでこれほどうっとうしいキャラは筧ならではのもの(笑い)といえるかもしれない。
それにしてもこれはやはり不思議な作品である。まず腑に落ちないのはこの芝居がなんとも奇妙なメタシアターの形式をとっていることだ。序幕ではまず「飲んだくれのスライが飲み屋を追い出され道ばたで眠っているところへ領主が通りかかり悪戯を思いつく。召使いを総動員して、酔いからさめたスライを眠り病にかかりやっと目ざめた領主だとだまし込む。奥方はいるし(もっとも女装した召使いだが)、ご馳走も山ほどあるので、スライは段々その気になる。そこに旅芸人一座がやってきたので「領主スライ」は生まれてはじめて劇を観ることになる。その劇の名は『じゃじゃ馬馴らし』」。
つまり、「じゃじゃ馬馴らし」自体が旅芸人の一座が演じている「劇中劇」であるという趣向なのだが、不思議と書いたのは普通の劇中劇ならば後口上かなにかが付いてまた劇中劇である「じゃじゃ馬馴らし」の外側の世界が描かれて終わるということになりはずだが、どういうわけかこの芝居にはそれがないことだ。つまり、虚構ではじまったはずが、現実に侵食してきているような通常に入れ子とは違う終わり方をするのだ。この舞台ではスライは観客席に座ってお客と一緒に芝居を見るのだが、それ以降放置されてカーテンコールにさえ姿を現さない。どこに行ってしまったのだろうか?