松本雄吉を追悼する インタビュー「具体・維新派・Gonzo」 (2009年収録インタビュー再録)
――大阪教育大学の美術専攻に在学されて、美術出身で演劇の世界に入ってきたということなのですが、関西にいらしたということで若いころに「具体美術協会」にも展覧会を見に行ったり、精神的な影響を受けて自分でもパフォーマンスをしたというような話を以前お聞きしたことがあるのですが。
松本雄吉 具体(具体美術協会)の場合、終わってからはじめて全体像が記録された。具体そのものが現役の時は「ここからここまでが具体美術だ」という風に見ていたという記憶がない。むしろそれぞれの具体のメンバーがあちこちでやっていたというだけで、具体としての活動はそれほどなかったんじゃないかなと思う。僕らもまだ若かったから、どこからどこまでが「具体美術協会」の会員でというようなことはそれほど認識がなかった。
でも、具体が起こしたいろんな作業というか流れのなかで「この人も具体だろうな」というのはあって思い込みで見ていた人もいたかもしれない。だからひょっとしたら具体じゃない人のパフォーマンスも具体だと思って見ていたかもしれない。
具体をよく見ていたのは1960年代。大学の時ではなくて高校の時だった。だから、全然理屈もくそも分からないで見ていた。当時は前衛といってもピカソとかだったのが、いきなり具体と出会ったから落差がものすごく大きかった。まず作品の大きさに驚いた。キャンバスが大きいんです。人間の体よりも大きなキャンバスだという驚き。もうひとつは厚み感。白髪一雄とか絵の具の盛り上がりのボリュームがすごいから、キャンバスの広さと絵の具の厚みが衝撃的だった。
グタイピナコテカがまだあったから、そこに行けばかならず具体の展覧会をやっていた。そこはレンガ倉庫みたいなとこころで今考えれば吉原製油の倉庫だったのかもしれない。受付もだれもいないし、扉もあけっぱなしで誰が入ってもいいような状態。入場料ももちろんいらない。そこで最初に見たのが白髪さんとか、ああいう人なんでそれはもう理屈じゃなくて身体で感じる美術というか……。それまではピカソであれ、クレーであれほとんど美術史でしか見たことのない人ばかり。たまたま、京都の美術館に来たのを見たけれど、こんなにでかい作品じゃなかったから。その後でアメリカの前衛美術も見たけれどそれは70年代。
――具体と出会ったことが美術の学校にいきたいというきっかけになったんでしょうか。
松本 高校生のくせに生意気に古典なんかは全然やる気がなくて、いきなり前衛という感じで。そのころだと皆競うようにして美術は東京芸大とか京都美大とかっていうアカデミックなコースがあったんだけれど、それより、前衛ということだったら教育大という話になった。
――具体の活動としては展覧会以外にパフォーマンスとかもやられていたんですか。
松本 「美術手帖」とかもまだいまのようには紹介していなかった時代だから、結局大学に詳しい人がいて、それだったらここでこんなことをやっているよとか、パフォーマンスをやっているよなどという具体のディティールを知ったのは大学にいってからだった。具体のパフォーマンスは中央公会堂で一度見た。具体美術協会が主催して協会員だけでなくていろんな人が出ていたんだけれど、それはもう超アングラ。その時に村上三郎の例の紙破りも見た。
――当時の印象としてはどんな感じでしたか。特にお客さんの反応とかは。
松本 そうやね。一種のサロン的な秘密パーティーじみた感じだったかなあ。美術家が舞台芸術というか、舞台美術というか、そういうのをやったのはあれがはじめてじゃないかと思う。それは後で知ったんだけれど草月(東京の草月会館)でもやっていた。ハイレッドセンターとか草間さんとかその辺が美術家が自分の身体を使ってボディアクションをするということを。
――維新派の初期のころも美術をやっていた人がほかにも参加していたと聞いていますが、演劇の影響というのももちろんあったとは思うのですが、そういう具体とかの舞台の影響も受けていたのでしょうか。
松本 パフォーマンス的なことをやろうと思っていたから、そういうのは多分にあったと思う。なにかやっぱり今思うと具体の人って海外情報は強かったと思う。その当時やったらジョン・ケージの真似ごととかしていたミュージシャンもいたし、それが美術家がジョン・ケージの真似をすることもあったし。
――関西では具体だけではなくて、それに影響されたほかのグループの人たちとかのパフォーマンスも盛んだったんですか。
松本 有名なのが名古屋のグループで「グループ位」というのがあった。それは過激だった。美術館でパーティーしおった。パーティーの間、素っ裸で一面泥を塗って泥の中でやった。時期を同じくしてはじまったのがアンデパンダンだから、そこでやったんじゃなかったかな。それともう一個なんとかいう展覧会があって、グループ位の人がどこの美術館でも占拠して泥パーティーのようなことをやっていた。
――維新派結成より以前に自分でもパフォーマンスをやられていたとか。どんなことをしていたのでしょうか。
松本 いろんなことをやったからなあ。なんかやはり占拠型が多かったかな。ひとつの場所を作品をそこに置くのではなくてその場所を作品化するというような。あまり、作品意識とかいうのではなくて、その場所を作りたいというようなことがあった。ただ、その時は自分の身体を使ってというような芝居じみたことはなかったから、身体を巻き添えにしてなにかやるというのはやはり維新派になってからかもしれない。
例えば教育大の正門入って講堂があるんですけれど、その講堂をちゃんと使用許可を出したかどうか分からないのだけれど、中に一週間立てこもって廃材かなんかを使って、花をこともあろうに女性の生理用の綿を使って、それを桜の花を作った。
――そういうのは直接維新派の旗揚げにつながっていっているのでしょうか。
松本 直接はないけれど、そういう美術といっても半分悪ふざけのようなことをやっていて、そういうところで演劇みたいなことを傍観していて、演劇って遅れているなという思いはあった。
――そういう意味では新劇のなかから新劇批判みたいな形で登場してきたほかのアングラ劇団とは設立の経緯が違いますね。
松本 だいぶと違うみたいやね。そのころ大阪でもアングラ劇団が二、三劇団あって、その人らの意識はアンチ新劇だったみたいだけれど、僕らは新劇のことも知らなかったからそういう意識は全然なかったから。
――美術活動をしていてそこに身体性とかが入ってくるのにはなにかきっかけがあったんですか?
松本 それはやはり東京から流れてきたような人とまったく別に芝居みたいなものを立ち上げないかという話があって、それも訳わからんとはじめたようなところがあるんだけれど、自分の身体を実際に使って舞台に立つということが美術のパフォーマンスはそういう意識でやっていないから、身体が見られるとか全然思っていない。だから、そういう緊張感というか人前に身体を晒すという美術の流れとは全然別のところがあって、流れの中でやったような感じだけれど、ちょっと違う部分もあった。
――松本さんが口癖のようにおっしゃっている「行為性」という言葉があるのですが、そのような言葉も当時よく言われていた言葉だったのでしょうか。
松本 「行為性」というのは美術的な言葉だった。表現ではなくて、行為しなければいかんという。ただね、行為という言葉はものすごく広く使われていた。
政治的なところではテロにつながるような、革命につながるようなことだし、美術家が言うのはタブローから美術館を出て、街に美術を持ち出すというか。あるいはパフォーマンス系の人たちの意識からすると作品よりも作品を作っている本人の意識の流れの方が大事だとか。
――今から見るとよく分からない部分もあるのですが、具体の人たちが作品というだけでなくて、作る行為を見せたり、パフォーマンスをやったりするというのは
松本 総じて作品を残す意識がなかった。それはひとつには皆貧しいので立派なアトリエを持てるわけじゃないし、ゲルニカに匹敵するようなキャンバスにわーと描いて、終わったら燃やしてしまうとか、皆そんなんやから作品を売買する対象とは全然考えていなかった。作品というのは自分が完成できたというとそれで終わりのような考え方だったから、たぶんにそういうふうな流れのなかで、出てきた発想のようなところがあった。だから、自分が砂浜に棒で書いて波でさーと洗われたら作品はなくなっちゃうみたいな行為性というか。
――先日横浜トリエンナーレで映像を見たのですが、具体の金山明さんの作品でそんなのがありました。
松本 それは須磨と違うかなあ。須磨のビエンナーレとか。あるいはもの派の人で須磨の海岸の土を削って、削った土を使って山を作るとか。それで完成かと思ったらそれをまた埋め戻してというのもあった。時間の流れのなかで作品を作る格闘の過程というか、その時間こそが大事だというような考えがあった。ほとんど、なにかそういうことでやっていた。
――演劇の世界からすると維新派は野外劇として分類されるわけですが、必ずしもそういう意識ではなくて、特に初期のころは舞台芸術というよりは行為性の過程での作品のようなところもあったのでは。
松本 初期はね、そうかもしれない。だから、見せるというよりはやっている本人がどれだけ楽しむかということ。だから、PLAYがやったデカイ卵を作ってアメリカまで流すというパフォーマンスなどもその典型。これもPLAYだけれど、皆で北海道の原野を集団で歩くとかね。僕らよりも少し上の世代で今もう70代になっているんじゃないかと思うのだけれど、池水慶一さんという人が中心でこの人はまだ現役でやってるはず。
――今回のじゃなくて前の横浜トリエンナーレに出品してらっしゃいました。
松本 僕らに近い人ではイメージイメージというグループがあって、それは等身大の滑り台を作ってそれを海の浮かべたり、水に浮かべたり、いろんなところに、滑り台を浮かべるというのをやっていた。これも浮かべたら後は撤収して帰るということだった。
――今風に言えばサイトスペシフィックアートというか置くことでの異化効果を狙ってるんでしょうか。
松本 その人らはいっさいその意味合いについて黙して語らなかった。だから、理屈ではないから余計難しかったのかもしれないけれど、その人たちのことはほとんど誰も取り上げなかった。でもそれは凄かったです。一個の滑り台を現地に行って組み立てていた。
――初期の維新派もアングラ演劇というよりもそういう人たちと共闘している意識があったのでしょうか。
松本 ちょっとはあったかもしれない。でも、演劇やからねえ、だいぶ違うのだけれど。ただ、どう見えるとか、どう見せるとかではなくて、やっている方の意識だけを大事にすることということはあった。
――演劇のような筋とかセリフとかあるんじゃないものも初期の維新派にはあったんですよね。
松本 梅田の歩道橋を黒いスーツのような衣装を着て渡るだけというものあった。これは美術の人も言っていたけれど、こういうことは評論があったり、誰かが見て評価してくれるということではないから、自分たちでやったことの意識的な記憶性というか、あるいはできるんだったらそれが次回につながっていくから、ちゃんと記録して自分でとどめておかなければというのはあった。ただ、今もわからへんねんや、聞かれてもそれがなにやったのかというようなことは。そういった作業がひょっとしたら僕らがやっている演劇の底辺にまだ生きているということがあるといえばあるかもしれない。
――話は少し飛んでしまいますが、実は松本さんが今まで話されていたことの延長線上に最近活発な活動をしているcontact Gonzo*1のパフォーマンスがあると考えています。彼ら活動領域が関西のみならず最近は東京も含む日本各地や海外へと広がっていったきっかけのひとつとして美術の部門での吉原治良賞の受賞とパフォーミングアーツのコンペティションであるPAMOアワードのダブル受賞がありました。松本さんはこのうちPAMOアワードの審査員を務め、彼らのことを強く推したというふうにお聞きしているのですが。具体の創始者であった吉原治良の名を冠した賞を彼らが受賞したことは象徴的だと思うし、彼らのパフォーマンスには映像で見た具体のパフォーマンスや維新派の初期のパフォーマンスにも通底するところを感じるのですがどうでしょうか。
松本 それは昔のパフォーマンスと彼らでは決定的に違う。Gonzoはやっぱりコンテンポラリーダンスというのが生まれてから、いってみればポストコンテンポラリーダンスのような位置にいるから、僕らが初期にやっていたパフォーマンスとは違う。
Gonzoは見る時によって印象が違う。確かに行為性というのはすごく意識してやっている感じはする。やってることは暴力沙汰のようなことだけれど、すごく知的なゲームというか、それはすごく感じる。知性が起立するというような感覚があって、しゃれてるなと思った。アンチにせよそこからずらそうとするにせよコンテンポラリーダンスというのがあって生まれてきたもので、そういう意味では踊りに対するひとつの批評というか、そういうのが強いのじゃないかなと思う。
――歴史的な過程をへてきているから共通する部分もあれば大きく違う部分もあるということですね。彼らの場合、一見素朴に見えて立ち位置がすごく面白い。一方でコンタクトインプロヴィゼーションというコンテンポラリーダンスの一技法からの流れがあり、もう一方でイベントやハプニングなどとも呼ばれていた60年代美術パフォーマンスとの類似性も感じる。まあ、コンタクトインプロを創始したスティーヴ・パクストンももともとマース・カニングハムのところで踊っていたダンサーですから系譜を遡っていけばどちらもジョン・ケージに行く着くわけですが。
松本 時間の流れのなかで位置づけられているというのは共通点かな。そういう意味でも知的な行為をやっていると思う。おれは彼らというのは一種の振幅性というか、すごく行為的な時間を持っているときと表現的な時間を持っているときがあって、それを往還している。これはかなり意識してやっていると思う。身体というのは言葉に記号化されるという部分があって、まったく記号性をこばむ非記号性というものもある。そちらの方は往復せざるをえない。そこでちょうど中間にくるのが彼らの得意とする暴力性というか。暴力というものはやはり暴力という言葉に置き換えられる部分もあるが、暴力ということそのものは本来は記号化されないような身体性だから、その辺のすれすれを振り子のように往来する。その時間と空間に観客がいるということを保証してくれるというか。観客もそれが分かっていてすごく知的な時間帯を共有する。彼らもそれを自分たちの身体を使ってやっているけれど、それに対しても客観性を持っているから。バランスの問題はものすごくいろんなところから来ているから、空間が多層的になる。その辺の面白さだと思う。
――維新派はどうでしたか。
松本 芝居にもそういう時間はあるんだろうね。冷静に考えてみれば舞台というものもそういうことをベースにしてやっているのだろうけれど、それを取り巻くような問題がいっぱいあるから、そういうことに気をとられてそういうような知的作業の根本的な面白さというのは忘れてしまっているだけの話かもしれない。
(大阪・空堀商店街 維新派事務所にて収録)