シュツットガルト・バレエ「ロミオとジュリエット」
シュツットガルト・バレエ「ロミオとジュリエット」(フェスティバルホール)を観劇。
作/W.シェイクスピア
振付/J.クランコ
音楽/S.プロコフィエフ
演奏/関西フィルハーモニー管弦楽団
出演/アリシア・アマトリアン(ジュリエット)、フリーデマン・フォーゲル(ロミオ)
「ロミオとジュリエット」というシェイクスピアのテクストは現代においてはダンスにおける上演の方が演劇よりも説得力があるんじゃないかと以前から思っていたのだが、今回初めてクランコ版の「ロミジュリ」を見てますますそのことに確信を深めた。
バレエによる「ロミオとジュリエット」ではやはりなんといってもマクミラン版の印象が強くて、それと比較してしまうとところどころ大げさで笑ってしまうようなところもあるにはあるのだが、それでもクランコ版の「ロミジュリ」もなかなかよかった。というか、ジュリエット役のアリシア・アマトリアン、ロミオ役のフリーデマン・フォーゲルともにこれまで知らなくておそらく初めて見るダンサーなのだけれど、これがいずれも役柄に合っていた。演劇でもそうなのだが、役柄の解釈とか、あるいはもっと根本的なところでいえば戯曲の解釈がシェイクスピアの上演では重要ではあるのだが、ことロミオとジュリエットに関していえば突然の恋に落ちる2人のニンがロミオとジュリエットに合致していて、それが観客の目に腑に落ちるかどうかの方が重要だと考えている。
そういう意味ではこの2人のロミオ、ジュリエットぶりはいずれも魅力的で恋する2人だけの世界をあますところなく表現しており、その意味で満足すべき上演だったといえよう。特にフォーゲルの方は端麗な容姿でしかも例えばハムレットのようには深刻ではなくて、かといって軽薄ではないだけのノーブルさがあるという点でこの役柄にピッタリであった。
同じ演劇的バレエといってもマクミランとクランコでは大きな差がある。細かい技術的なことはバレエの専門家ではないので分かりかねるが、素人目に見ても、同じ2人の恋に落ちた心情を表現するといってもマクミランが細かい心理的なディティールをコンテンポラリーの技法を交えながら複雑に組み合わせて処理しているのに対して、クランコはより分かりやすい形で回転や大きなリフトを多用してダイナミックにバレエ的に処理しているように思われた。
少し気になったのはダンスではなくて、マイムというか演技で表現されている部分で、オペラなどではもっと大げさな表現が頻出するから、バレエでも仕方ない面もあるかもしれないが、例えばキュピレット夫人がティボルトの死を嘆く部分などはあまりにもおおげさに愁嘆場*1を演じるものだから現代演劇を見慣れた目で見ると思わず笑ってしまう。ひょっとしたら、夫人は個人的にこの甥と関係があったのじゃないかという邪推を思わずしかねないほどだ。もっとも、実は戯曲の解釈ではオーソドックスなものとはいえないけれど、そういう解釈もあるらしいと耳にしたことがあるのだが、まさかクランコがその解釈にもとずいてこの部分を作ってるとは思えないが、どうなんだろうか。
マクミラン版と比べた時にちょっとクランコ版が物足りないのはラストの部分に2人のパ・ド・ドゥがないことだ。戯曲の解釈上はこの場面で生きた2人が顔を合わせることはないので確かにこちらの方が原作に忠実だといえるのだが、バレエの構成上はこのクライマックスで大きな見せ場がほしいところで、演劇ならばともかくやはりバレエの華はパ・ド・ドゥだから一人で嘆いて自殺してもどうももうひとつ淡白に盛り上がりに欠けたまま終わってしまったというか。さらにいえばいくら原作にあるといっても、バレエの場合パリスを出すのも疑問。原作でもやはりロミオがパリスを殺しちゃうのはそこまでしなくてもとやはり不自然ではあるのだけれど、最低限、台詞の部分でフォローしているのだが、ダンスだとただ殺されちゃうだけだからなあ。その意味で不必要だとパリスもロレンス神父も切ってしまったマクミランはやはり慧眼だったと思う。