RSC「Troilus and Cresida」など
「Kyogen - Raw and Uncooked」*1(C central)
かつて海外のフェスティバルなどでなんども能や歌舞伎のスタイルという風に現地で紹介された「トンデモ」舞台を見た経験があるので、Kyogenとは紹介されていたけれども、「本当かいな」と半信半疑で出掛けたのがこの舞台。どんな「トンデモ」が登場するのかと楽しみにしていたのだけれど、これはまだ若いけれどちゃんとした狂言師による外国人向け分かりやすい狂言講座のような内容の舞台であった。ちゃんとした作品を全編上演するわけではないし、そういうものを期待すると肩透かしもあるが、いろんな作品のさわり*2を演じてみせながら、相当に流暢な英語での説明をはさんで、さらにはところどころで何人かの観客を舞台に上げたりして、楽しませていく手腕はなかなかのものだ。
舞台とはいっても少し実演も含めたワークショップのような雰囲気もあり、舞台に上げる観客のノリなどにも左右される面もあって、難しいとも思ったが、エジンバラ演劇祭の場合、ほかの舞台でも感じたが、観客におそらくほかの劇場の出演していると思われる俳優やパフォーマーも含まれていて、思いのほかノリがいい。この日は最初に男女2人、後から女性2人が舞台に上がったのだけれど、このうち後から上がった人は彼が要求することに嬉々として応じて、自分の判断でアドリブもまじえていたから、おそらく俳優なんじゃないかと思われたけれどうだったんだろうか。まあ、一般の観客も概して日本と比べればノリはいいのであるが。
本当は彼と終演後少し話してみたかったのだが、次の予定もあるのであきらめた。すごく若く見えるのでどういうことだろうと思いネット検索で調べてみると彼は石田淡朗くんといい18歳。和泉流狂言師の石田幸雄さん*3の息子で英国に留学中。事情はよく分からないが、さらに検索してみると野村萬斎による「まちがいの狂言」の舞台にも立っているようでそのあたりの影響もすごく受けているのかもしれない。
狂言師の家柄の生まれで幼少の時から舞台にあがってきているのであろうとはいえ、このエジンバラ演劇祭のフリンジの舞台に三週間たったひとりで上がり続けるということは相当の武者修行になるんじゃないかと思った。こういう若者が海外で頑張っているというのは本当に頼もしいと思う。下世話な話にはなるけれど、石田淡朗くん、ルックスもいいし、次代のスター候補かもしれない。
RSC「Troilus and Cresida」(King's Theatre)
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(The Royal Shakespeare Company: RSC)が、2006年4月から1年間にわたり、シェイクスピアの全劇作品を上演するという画期的な企画「Complete Works Festival」をスタートしており、日本からもこの企画に蜷川幸雄が「タイタス・アンドロニカス」で参加しているのだが、ペーター・シュタイン演出による「Troilus and Cresida」もその企画によってRSCとエジンバラインターネショナルフェスティバルにより共同製作された舞台である。
この作品はトロイ戦争を題材に扱っていて、この有名な物語をシェイクスピアが作品にしているのだから、もっと知られていてもいいはずなのに意外なほど知名度が低い。それはシェイクスピア作品としては極端に実際に上演されることが少ないためのようで、日本ではシェイクスピアシアターによる全作上演も含めて過去数度しか上演されただけのようで「珍品中の珍品」といえるかもしれない。
トロイ戦争を扱っていて、登場人物もギリシア側ではアキレウス、ユリシーズ、メネラオス、トロイ側もヘクトール、パリスと英雄勢ぞろいで有名人にはことかかない。そんな芝居がなぜあまり上演されないのだろうと疑問に思っていたのだが、実際の舞台を見ているうちに理由はすぐに分かった。この芝居ではトロイラスとクレシダを中心とする恋愛についてのやりとりとトロイ戦争におけるギリシア側とトルコ側の思惑を描いた歴史劇的な部分が同時進行していくのだが、どうもその2つがバラバラのままで、まったく関係のない2つの芝居を同時に見せられているみたいで、全体としての印象が散漫なのである。
単純にいって「マクベス」「オセロ」のように最終的なカタストロフィーに向けてすべての要素がなだれをうって進んでいくような爽快さはないし、かといって喜劇的な部分はあるとはいえ、そんなに可笑しくて笑える部分もない。この舞台は途中休憩も含んでではあるが、上演時間3時間半という大作とも言える舞台でもあり、正直言って途中の場面では退屈してしまうことが否めなかった。トロイラスとクレシダのやりとりにしても本来ならば初期の作品である「ロミオとジュリエット」でさえ、そのやり取りに軽妙なレトリックの冴えを見せていたあのシェイクスピアがまったくその片鱗もうかがえないほどにそういう面白さは消え果ててしまっていて、これが同じ作者によるものなのかどうかも疑しく感じるほどなのだ。
シェイクスピア学者もこの芝居の解釈には困ったみたいで分類としては意味が分かるようで分からない「問題劇」などというジャンルを捏造して、ことをすませようとしたみたいではあるが、そもそも「問題劇」ってなんなんだ。それは「よく分からない」ということなんじゃないか(笑い)。
そんな風な難物を押し付けられて貧乏くじを引かされた感のある演出家、ペーター・シュタインだが、なんとかこれを面白く見せようという工夫の跡は涙ぐましいほどで、そういう意味では健闘していた。
ひとつは上の写真の戦闘シーンのようなスペクタクルな演出で、この斜面は舞台に最初からあるのではなく、上からまず壁のように降りてきて、それがいつのまにか舞台上で傾いて、丘のようになる。こうした巨大な舞台美術も含め、ビジュアル面におけるサービス精神はなかなかのものであった。
より重要なのは道化の扱い方である。この芝居にはトロイ側とギリシア側にそれぞれ道化的な人物がでてきて、これがシェイクスピア特有のいわゆる「傍白」を多用するのだが、今回のシュタイン演出ではそこのところに工夫を凝らしていた。ある場面では傍白が歌になって、舞台上で突然歌いだしたり、さらにそこにいるのにいないかのように他の登場人物の周りをぐるぐると歩き回らせたり、最後には3階席から登場して、客席に向かって台詞を語りかけたり。その演出には異化効果的というかシェイクスピアなのにどことなくブレヒト劇を思わせるところがあった。最近は2003年にこのエジンバラで見たチェホフの「かもめ」などのようにどちらかというと職人的な巧さが目立つシュタインの演出だったが、今回はそこに「ドイツ演劇の受け継いできた伝統」という匂いを感じさせたのが興味深かった。
Rosie Kay Dance Theatre「The Wild Party」(DANCE BASE)
女2人、男2人、生演奏のモダンジャズバンド(ドラム、ベース、キーボード奏者の3人)による構成。舞台の冒頭でいきなり派手な色合いの服装を着たエキセントリックな女性が登場するところから始まる。この人、客席にむかってなにやら叫んでみせる。観客としては「困った人がでてきたな」という感じなのだが、引き続き2人の男性ダンサーが登場(1人はスキンヘッドでマッチョ系、もうひとりは背広でしっかりと決めた典型的な二枚目)。その後で舞台の上手奥でなにかが倒れるような大きな音とともに日本語には訳しにくいような猥褻語を叫んで、真打登場とばかりにきわどい衣装(白のオール・イン・ワンの下着の上にすけすけの布のピンクのシャツ)をはおった女性が出て来る。4人とも(特に女性2人は)実生活であったらやばそうで絶対に係わり合いになりたくないような人間に見えるのだが、これはもちろん演技で普段はそんな風体とは似ても似つかぬ女性なんだろう(と思う、というかそう信じたい)。
この「The Wild Party」という舞台ではこの4人の登場人物が文字通りWild Party(乱痴気騒ぎ)を引き起こす一夜の出来事のことが語られるのだが、4人のパフォーマーはのべつ幕なしにセリフをしゃべり続けていっるし、ダンスを誰かが踊っている横でその踊っている人物についての紹介をナレーション風にほかのパフォーマーが入れたり、非常に演劇的な要素が強い作品なのである。
この舞台ではダンスの要素は各所に挿入はされていて、そこでのムーブメント自体は暴力的でアクロバティックなリフトとか、様々な形態でのコンタクトなどコンテンポラリーダンスの生み出した動きが取り入れられてはいるのだが、舞台の構造はあくまでも演劇的なナラティブ(物語)によって支配されていて、例えばセックスを連想させるような動きが男女ペアによるコンタクトによって表現されるなど、身体言語は強い意味性をはらんでいて、物語に奉仕するような構造となっている。
それはある意味でダンス・オリエンテドな立場から見ればクリシェにすぎないともいえ、ここにはダンスとしてのムーブメントの独自性などはあまり感じられない。その分、分かりやすいし、大衆性を持っているともいえるが、それでいて扱う対象にきわどさなども考えるとブロードウェーのミュージカルとははっきり異なる主題に対する構えが感じられ、そのあたりが面白い。
少なくともこの作品はドイツ、フランス、ベルギーなど欧州大陸系のコンテンポラリーダンスとははっきり違うし、アメリカのモダンダンスとも違う。もっとも、当日配られたパンフを読んでも、あるいはウェブでの紹介文を読んでもダンスという表現はあっても、コンテンポラリーダンスとはいっさい書いてないのでこのような作品が英国においてコンテンポラリーダンスと見なされるのかどうかというのはよく分からないのだが、エジンバラ演劇フェスティバルで見た作品にはけっこうこれと同種に思われる表現があって、そのことが興味深かった。
「Realism」(Royal Lycem Theatre)
これもエジンバラ国際フェスティバルの中の1本。スコットランドのPlaywrite(劇作家)・Directer(演出家)であるAnthony Nielson(アンソニー・ニルソン)の新作をNational Theatre of Scotlandが製作した。よく出来てはいるけれどどちらかというと保守的な作品が目立つエジンバラ演劇祭のなかではこの作品は非常に斬新なところがあって面白かった。英国で主流となっているリアリズム系の作品ではないということは冒頭の幕が開いて、舞台が現れた瞬間に舞台美術を見ただけで分かった。舞台全体には砂漠のように砂がひかれていて、そこにソファであるとか、冷蔵庫、ベッド、洗濯機といった家財道具が時には半分砂に埋まるように置かれている。しかも、舞台は傾斜がけっこうきつい八百屋になっていて、向かって奥の方が高いので、ベッドやソファなどは斜めになっているのだ。
このセットなどはちょっとベケットを思わせるところがあるのだが、芝居がはじまると主人公と思われる男がガウン姿で上手のソファに寝そべっていて、もうひとりのこちらは砂の上でサッカーボールのリフティングをしている男と話をしているところからこの芝居ははじまる。
ビジュアルとしてはかなりシュールなんだけれど会話自体には日常的なところもあって、この奇妙な場所はガウンの男が暮らしている部屋なんだということが分かってくる。ただ、この後の展開はこの男の部屋には立ち代り入れ替わり奇妙なキャラが訪ねてきて、この男と会話を交わすのでしばらくするとこれはおそらく現実のことではなく、この男の夢か妄想のなかの出来事ではないかというのが分かるようになる。
英語能力の限界もあって、それぞれの場面が正確にどんなことを意味しているのか分かりかねるところがあったのが残念だが、シーンのいくつかは本当にばかばかしくて、スラップスティックやナンセンスなコントを思わせるもので、会場では笑いの渦が起こっていた。
一例を挙げればテレビの討論番組のパロディーのようになっているシーンで主人公の男はまるで大統領か首相の演説のように「煙草について反対しない」という大論陣を張っていく。「煙草がいけないという人は身体によくないというが、それではなぜそういう人たちはジャンクフードに反対しないのか。身体に悪いものはすべて禁止すべきだ。すべてのジャンクフードを禁止しろ」。大論陣を張って主人公が演説しているうちに舞台にはしだいにスモークが充満してきて(煙草の煙を意味しているのであろう)、演説する男以外の出演者はみなゴホンゴホンと咳をしながら舞台からはけていなくってしまう。
あるいはある場面はこんな風である。主人公のところに下着姿のセクシーな女性が訪ねてきて「いやらしいことしましょう」と誘惑され、さらにもうひとり同様な女性が現れ、このふたりにいろいろいやらしいことやらせようと妄想しはじめるのだが、いざそれが実現しそうになると、主人公が望んでもいないのにもうひとり主人公をよく知る女性が現れ、それを見てジャマをはじめ、それで主人公はことを起こそうという気持ちがなえてしまって、自分の想像の世界からそれを追い払おうとするのだけれど、どうしても追い払えない。
男の妄想(夢想)を舞台に乗せるという意味ではまず連想したのはジェイムズ・サーバーの小説「虹をつかむ男 ウォルター・ミティ氏の秘密の生活」に登場する夢想家、ウォルター・ミティのことだったが、ここでの夢想はもう少しシリアス。どうやらこの主人公には「死」というものの恐怖が重くのしかかっているようで、モチーフとして登場する主題も芝居が進行すればするほど、そういうイメージに近づいていって、物語内で病気の発作のようなもので倒れた男は助けを呼ぼうとするが逆に登場人物のひとりによって殺されてしまう。実はそのシーンの前に年配の女性がやはり同じような発作で倒れる場面があって、この後の登場人物総登場で行われる葬式の場面では同じ人が背中に羽をつけて、舞台上で宙吊りになったままこの葬式に参加するので、ここからその人物は彼の母親でなにかの発作で道で倒れたまま亡くなったんだということが分かる。そして、彼の一連の恐怖もいつか自分も同じようになるのではないかという不安を抱えていることからこういう妄想が起こってくるんだということもそれとなく示される。
説明がいささか冗漫かつ長くなってしまったが、こんな風なスタイルの芝居はどこかで見たことがあると思い考えていて、ハッと気がついたのはナイロン100℃のKERAのことで「死」という重い主題を扱いながらもそれをシリアスにではなくて、あくまでナンセンスなコント風のシーンを連ねて見せていくという手つきが例えば「カラフルメリィでオハヨ」でKERAがやってみせたタッチとすごく似通ったところがあったのだ。
そういう風に考えるとこの芝居に登場した突然なんの脈絡もなく、黒塗りした男たちが演じるミンストレルショーが舞台上に現れ、チャールストンを踊りまくるシーンとか、さきほどの3人の女性のシーンなどはいかにもKERAがやりそうなギャグなのである。
作者がKERAの舞台を見たはずもないし、偶然の一致だとは思うけれど、作風についていえばNielsonは1967年生まれというから1963年1月3日生まれのKERAよりは少し若い世代に属するのだけれど、大きくいえばモンティー・パイソン的な悪ふざけの表現に直接、間接的な影響を受けた世代でもあって、その意味で言えば同じようなものを面白がる感性が共有されているということがあるのかもしれない。そういえばこのNielsonという人は欧米では珍しく、作・演出を両方担当する人で、そのせいでかどうかは分からないけれど、稽古初日に脚本が耳をそろえてあるというタイプではなくて、少しずつ現場で俳優との共同作業によって舞台を作っていくらしい。当日配られたパンフによれば本が遅いとは直接は書いてはないが、舞台は本番が近くなってもなかなか出来上がらず、関係者をやきもきさせるというようなことが書かれており、そういう意味でもこの2人は同類なのかも(笑い)。
舞台を見る限り本人以外が演出するのはかなり難しそうなのだが、この舞台が翻訳されたのをKERAの演出で見てみたいとも思った。
この舞台でもうひとつ面白かったのは基本的には一幕劇なのだが、エピローグにあたる部分として幕が下りると半透明の幕の向こうに透けていつのまにかこちらはものすごくリアルなダイニングキッチンの部屋があって、そこで主人公の男が朝食を食べている。そこに妻も少しだけ姿を見せ、3人の女性の場面でジャマしてたのは彼女だというのがここではっきり分かるのだが、この部分は台詞もいっさいないのだが、こちらが「現実」で、だから、それまでのがこのさえないサラリーマンの主人公の妄想だったことが分かるという仕掛け。この部屋の装置が突然出現したのはおそらくこの部屋のセットそのものが吊られていたのが降りてきたのだと思うが、この突然の出現にはびっくりさせられたのだった。
http://www.edinburgh.uk.emb-japan.go.jp/culture1.htm
*1:現地の新聞のレビューhttp://www.sadsweetsongs.co.uk/?cat=11
*2:メインは「棒しばり」だが、そのほかにも色んな演目を演じてみせる
*3:http://www.tcn-catv.ne.jp/~acc/hito/hito/94ishidayukio.html